コングより恐竜を持って帰ったほうがウケたんじゃなかろうか

 だらだら。世は3連休の初日。個人的には関係ないが、夫婦の休日であるので、日用品を買出しに。電灯のサイズが発端で痴話喧嘩。真にくだらない。結局、本当に買いたかった商品を買わずに帰る。晩飯はカボチャのグラタンとコノシロの刺身。『キングコング』を見て寝る。

 

キングコング [DVD]

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 オリジナル版の『キングコング』(1933)。ナオミ・ワッツの『キングコング』と比較すると、ストーリーの流れは強引で、話に深みがないのは否めないが、それでもあの時代によくこれだけのものを作ったものだと感心。脚本家がいなかったり、コングがやたら凶暴だったり、原住民がコングと戦ったりと、かなりワッツ版が原作を変更(あるいは補完)していることが分かった。文明と野蛮(prehistory)の図式、そしてその壁を越えていく文明人とそれを突き破るコング。壁のこっち側では人間は雄弁なのに、向こう側ではせいぜい "come on"ぐらいのもので、ほとんど "primal scream" で場面は展開していく。コングがヒロインの服を剥ぎ取っていくあたり、ある意味コングが観客の禁じられている欲望を代理していると考えていいものか。テクノロジーに逆らったり(電車をひっくり返したり、当時最先端の飛行機を叩き落したり)、エロティックな欲望を素直に表現したり、エンパイアステートビルに登ったり。コングは確かに日常生活をぶち壊してしまう怖い存在なのだけども(人間を食べたり、興味のない人間を高いところから突き落としたり)、当時の人が「あんなこといいな、できたらいいな」と思っていることをやってくれる、つまり「文明なんかくだらない」ときっぱりいってくれるヒーローであったりするんじゃなかろうか。そういう意味で、恐慌下、文明の行き詰まりを感じさせた時代に、文明の内外の境界を取っ払ってしまうコングのような(アンチ)ヒーローが、一度文明をリセットする象徴的な役目を果たしたのかもしれない。文明なんか大した事ない、って言ってくれる人間が文明には属さないコング以外にはいなかった時代のお話。
 にしても、あの原住民、絶対アメリカ黒人だよなあ。映画を撮りにいく映画という枠組みで観客にリアルであることをアピールしている点から言っても、原始人と黒人とを簡単に結び付けてしまうわけで。しかも、最終的にコングに供されるヒロインが原住民の生贄の6人分に相当することを酋長さんに言わしてしまっている。5分の3条項より酷くないかい。けれどそれでも、当時の大衆のエキゾティシズムの対象はコングや恐竜の世界、つまり壁の向こう側なのであって、多分アメリカとは隔絶した孤島の原住民ではない。もはやプリミティヴなものはそんなにエキゾチックに映らない時代だったんじゃなかろうか(すでに身近な他者として存在しているということか)。プリミティヴじゃなくて、prehistoricなものが当時は最高にエキゾチックだったのかなあ、とちょっと宮本陽一郎の論を修正してみたくもある。だとしたら、具体的な他者を敵役にするとPCに引っかかるからというんで、地球外にそれを求めている近年のSF映画とは、ちょっと事情が違うんだろうなあ。
モダンの黄昏―帝国主義の改体とポストモダニズムの生成

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