嫌韓流

 贈答品の買い物をしに街へ。ついでに倒産した会社の在庫処分市なるものに行って来る。あんまり期待はしていなかったのだが、意外に楽しい。なにより安い。ジーンズやサンダル、包丁、時計、ジャージ、スニーカーなどなどたんまり買って帰る。試着するスペースがなかったので帰宅してから着てみる。2本のジーンズのうち、片方が全く入らない。なので1本は嫁にパス。2本とも着れなかったら頭を抱えるところだが、もう1本は入ったのでホッとする。メタボリック症候群の仲間入りは、どうやらまだ先のよう。

 

マンガ嫌韓流

マンガ嫌韓流

 いまごろ読む。主として、韓国人ならびに韓国が主張している侵略者・日本という歴史認識を正していくという内容。「新しい歴史教科書」や修正主義派の歴史認識2ちゃんねるで喧伝されている風説をもとに書かれているようだ。韓国の声明や反日教育の内容が時に独善的で、都合が良すぎるというのはよくわかる。けれど、相手が間違っているから自分の方が正しい、という論法は、自分の主張の正しさをちゃんと検証していない、という点で、間違っていると自分が糾弾する当の相手と同じく独善的な袋小路に嵌り込む。このマンガの表紙や帯を見ても分かるように、内容は極めて扇情的なもの。当然売るために出しているのだから売れないと意味はないのだろうけど、こんなテンションで冷静な議論ができるとは思わない。各章の末尾で「相手のことをちゃんと知らないと仲良くなれない」とか「日韓友好のためにもっと歴史を正しく知らないといけない」とか付け足されているが、本当にとってつけたような印象で、内容とのギャップは否めない。そして、肝心の内容だが、http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/archiveによれば、結構な頻度で間違いが見つかるようだ。その辺のところは恥ずかしながらあまり詳しくはないので(小林よしのり本程度の知識しかない)、私自身は大きなことは言えない。『嫌韓流』に何らかの前向きな教訓を求めるとすれば、日本人も積極的に歴史について知らなければならない、ということだろう。その点は猛省しなければならない。
 しかし、事実関係がどうであれ、『嫌韓流』が用いるレトリックは、かなり悪質であることを認めざるをえない。本書のレトリックは、、その大半が間違ったディベート形式に拠っている(主人公は「極東アジア研究会」というディベートサークルに属し、度々ディベートに参加する。ディベート以外の場所でも、在日韓国人などの相手とのディベートで議論は進む)。ディベートは、2つの陣営に分かれて、より説得的な論拠を示しながら論を戦わせ、第三者を説得することを目指す討論の一形態を指す。論理的に客観的第三者を納得させることが肝要なのであって、討論の相手を打ち負かすのが目的ではない、というのは言うまでもない。ところが、この本に登場するディベートはことごとく相手を打ち負かすことを目的としている。しばしば「韓国人の間違った歴史認識を正す」という旨のセリフが出てくるが、そうした登場人物たちの目的論がディベートの場にも持ち込まれている。しかも、常に主人公たちが拠って立つ陣営が正しく、韓国に伍するものは敗北を宿命付けられている。韓国側のスポークスマンは、ことごとく論理的に稚拙であり、感情的な暴論を吹っかける。論破しやすい相手を選んでいる、もしくは故意にそうした人物造型を施しているように見られても仕方ないだろう。また、ディベートに関する重大な誤謬として、個人の日常的な信念を揺るがすことないよう、ディベートの場においても、予め個人の立ち位置がその信念に沿う形で固定されている、という点が挙げられる。ディベートは、論理を競う場であって、個の信念を問う場ではない。実際にディベートでは、無作為にaffirmativeとnegativeに分けられる。自分の信念があるテーマに対してaffirmativeかnegativeかというのは、ディベートにおいては全く関係がない。ところが、本書において、信念と議論での立ち位置はまったく矛盾することがない。いや、信念だけではない。国籍も矛盾しない。つまり、予め論者は、自分の所属する国、そしてその国が正しいと信じる信念、そしてそれに対応した立ち位置を与えられているのである(日本人の論者はディベートにおいて常に日本を擁護する側に立ち、韓国人は韓国を擁護する側に立つ)。これはディベートではない。あえてそれをディベートと呼ぶのであれば、予め結果が帯やタイトルや表紙によって見えすいている論争を、予定調和的に消化し、それを客観的第三者である読者(すでにこの本を手に取る時点で客観的かどうか疑わしいところだが)の判断に委ねるという勝負付けの済んだ「擬似ディベート」に他ならない。国民と国家が何の矛盾もなく並置され、しかも予め両国民=国家のあいだにはヒエラルキーが設けられている。議論の中身がどんなに説得力のあるものであったとしても、立ち位置の固定と初期条件の不公平さ(日本人は常に物知りで、韓国人は無知)によってその説得力は減じられる。*1
 もっとも中身の議論に説得力があるとも思えない。国民と国家との癒着を「擬似ディベート」によって再強化し、日韓の知的差異を捏造する構造を持つ『嫌韓流』であるが、いざ責任の問題に話が及ぶとあっさり国民の連続性を否定する。

韓国:これら歴史的事実を日本の右翼勢力は隠そうとするばかりか歪曲して正当化しようとしている!被害者側として絶対に許せない。事実を正面から受け止めて真摯に反省をするべきではないのか!
日本:いいえ。日本人は反省する必要はありません
韓国:な、何だと!?
日本:だってそうでしょう。日本人という理由で反省すべきと言うなら、今後生まれてくる子供も反省しなくてはならなくなりますよ。
韓国:今は子供の話はしていない!!
日本:では私自身の話でもいいですが、私が生まれたのは1980年代ですよ?私は生まれた瞬間に戦前のことで反省しなければならないのですか?ほとんどの日本人は当事者ではないのです。全く関係ないのに日本人として生まれたから反省しなければならないのですか!?
韓国:そうではない!歴史を知れば反省したくなるのが人間らしい心ってものじゃないか!少なくとも韓国を植民地化した日本政府は謝罪や賠償を行うべきだ!
日本:あれ?謝罪は何十回も行われていますよ。経済協力金という名の補償もしていますし。
韓国:謝罪した後でそれを覆すような発言をしたら、また謝罪しなければならないのは当然だろ!日本の政治家が妄言を言わなければよいのだ!!
日本:そんなこと言われても、日本は言論の自由がある国ですし、思想の自由も保証されています。政治家全員の思想が片寄(ママ)ったら、国が間違った方向に進んだとき恐いですね。(つまり韓日友好の為に言論封鎖ですか?)それとも日本は全体主義国家になるべきとでも?(203-04)


 一読して、突っ込みどころ満載の稚拙な論理に目を覆いたくなるところ(仮構された韓国側の批判もまことに稚拙だが、日本側の論理は強弁といってもいい。こんなディベートグループなんか一回戦で負けだと思うのだが)だが、まず問題点を1つだけ挙げるなら日本人を戦前と戦後とで意図的に分断しているところか。この論理が巧妙なのは、戦前の戦争責任を戦後生まれの人間が負わなくてもいい、という歴史責任の免責の肯定だけではなく、後世の人間が行う歴史の検証作業から戦争責任の問題を完全に除外するところにある。この論理に従うと、戦争責任は歴史の当事者が負うべきものであって、歴史を学ぶ現在の人間ではないことになる。明らかに歴史を他人事として捉え、無責任に歴史を弄ぶ姿勢がここに如実に現れる。その無責任さの極が、引用の最後の部分に現れる。俗流ポストモダン歴史観の意図的誤用とでもいうべきか。色んな意見があるんだから、何を言ってもいい。それが、本書に通底する主張であり、歴史は他人事、そうやって突き放してみるのが、客観的な見方だと思っているようだ。結局のところ、歴史から責任を除外した歴史の議論を、どっちに転ぼうとわれ関せずのアマチュアの歴史家(というとアマチュアの歴史家に失礼である)が捏ね繰り回しているだけである。韓国側の感情的誤謬に対して、論理的な正しさを主張する日本側だが、そうした一見冷静に見える歴史の高みに立った余裕の姿勢は、こうした無責任さによって担保されている。韓国側の過剰に責任を求める態度とは対照的な日本側の無責任な態度は、巧妙に戦争責任の議論を排除し、かつ歴史を語るものの責任を消去するという点において、とても論理的に正しいとはいえない。韓国側が感情的で論理的に間違っているからといって、日本側が論理的に正しいことを証明することはできない。むしろ、日本側は冷静すぎるがゆえに、無責任の陥穽に嵌りこんでいる。歴史を問う検証作業も、戦後に生きる私たちの「戦争責任」であることを忘れてはならない。また日本国に生きる以上、たとえ自分が犯していない罪であっても他の日本人が犯した罪を他国の人は日本人全体の罪と認識することもある、という国民国家に生きるものの危険性を認識しておく必要がある。責任には自らが選択して背負うものと、不可避に背負わなければならないものがある。日本国の責任を無視したいのであれば、どこか他の国を選択すればいい。国家を選択する自由はある。ただ、日本国を出たからといって、日本人ではなくなる、というわけではない。どこにいっても、日本人の痕跡はついて回る。加えて、日本以外の国にも背負わなくてはならない責任がある。歴史を学ぶということは、そういう責任の怖さを知ることだと、私は思うのだが。
 話を戻す。都合の悪いことは自らを免責し国民=国家の連続性を解消して処理する本書であるが、彼らの文化的側面にとって重要な局面では連続性が強調され、「日本固有の文化」を盗む他国の責任を問う。特に第4話において、剣道の盗用の問題を扱う中で、その起源を古墳時代にまで遡りながら説明しようとしているように、日本文化や日本国家、さらにはそれを大事に保持する日本国民の連続性を自明のものとしている。「起源」という考え方は大概眉唾ものだ。というのも、起源は遡ろうと思えばいくらでも遡ることができるものだからだ。起源の言説は、起源をある一点に固定し、それが暫定的なものであることを隠し、真性化する。言い換えるなら、起源の言説はそれが言説であることを隠そうとする。もちろん、理論的な観点から本書を一方的に斬ることはしないし、その必要もない。なぜなら本書において、剣道の起源ははっきりと示されていない(701年前後に起源があることをほのめかされている)からだ。しかも、日本古来の武道である剣道の起源を語る中で、古墳時代に大陸から剣の精錬技法が伝わったことに言及してしまっている。予め「日本古来」という論拠はここにおいて崩れてしまう。起源論としては、あまりにお粗末な立論であるといえよう。こうしたお粗末な起源を論拠にして、韓国が日本とは別の剣道の正当性を主張していることに対し、登場人物たちは憤る。もちろん、韓国が起源を捏造していることは責められるべきかもしれない。しかし、同じように起源を捏造し、正当性を主張する登場人物たちに韓国側の責任を問う権限はない。ましてや、文化的な話題になると国民=国家の連続性を主張するのに(701年ごろに日本は存在しない。現在の日本国の国土上に別のクニがあったことに注意)、政治的な話題に及ぶと国民=国家の連続性をあっさり否定する彼らに、論理的な正しさなどない。ご都合主義というほかない。
 知識を蓄積することは、歴史と関わる上で非常に大切なことだと思う。自分にはまだまだ知識不足で歴史を語る資格はない。しかし、知識をどう扱うのか、どのように吸収するのか、どのように組み立てるのか、という方法論が歴史を語る上で知識の蓄積よりも重要なことだということぐらいはわかっている。どんなに博学な人間でも、知識の扱い方がまずいと存在理由がない。この本にはそうした方法論に対する意識が決定的に欠けている。私はナショナリズム自体は否定しない。国民国家を幻想だと退けることはもはや理論的に意味がない。それは幻想や現実という言葉で分割できないほど我々の身体に染み付いたものになっているからだ。ナショナリズムを信じながら生きるというのは、ある意味自然なことで当然のことだろう。むしろそのような信仰を素直に信じれる人がうらやましいくらいだ。しかし、歴史を語る際に国民国家を「あなた」と同一視しながら無責任に語るのは、やめていただきたい。語っているのは国民国家ではなく、他でもない「あなた」である。国民国家の中には「私」も含まれる。「あなた」の語りを「私」の語りと同一視するのはやめてもらいたい。「あなた」は日本を代表しているつもりかもしれない。しかし、「私」は「あなた」と同一視されたくはない。加えて、国民国家と同一化したはずの「あなた」が、都合の悪いときだけ国民国家から無責任に分離しないでいただきたい。まるで「私」まで「あなた」と同じように責任を回避しているように思われるではないか。歴史を語る責任は、過去に対する責任や他国に対する責任だけではない。「あなた」が良かれと思って免責する戦後生まれの「私」に対する責任も含まれている。以下、2巻に続く。

*1:ディベートに関しては、ディベート経験のある嫁の話とhttp://www.coda.or.jp/what.htmlを参考にした。