ケンチャナ・ケンチャナ・ケンチャナヨ

 読書、その他。今日は嫁さんが友人と外食するというので留守番。ひゃっほい。晩飯は弁当とカツオのたたきでさっくり。夕刻、新聞の集金が来るが、財布の中身はほぼからっぽ。払えず。すんましぇーん、また来てください。


 http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/07/02/20060702000025.html
韓半島』。いくらエンタメとはいえ、やりすぎな感じが。求心力のないノ・ムヒョン政権が政権基盤の強化の為に反日を扇動するのに乗じて、こんなもんが出てくる。まあ、日本政府もそうだし、『嫌韓流』も同じようなものだけど。これを笑い飛ばせる人間がもっと増えればいいねえ。エンタメとして消費する分には構わないけど、絶対真に受ける人間がいるんだよなあ。リテラシーって大事です。にしても、「朝鮮日報」の記者は随分厳しく突っ込んでるなあ・・・・。

韓国人の歴史観 (文春新書)

韓国人の歴史観 (文春新書)

 『嫌韓流』のお口直しに。まだ途中。冷静に韓国の状況を分析している。韓国批判を日本の正当化へと短絡させることはなく、あくまで日本の植民地政策を認める立場を採っている。過去の歴史の事実関係ではなく、過去が現在の視点ではどう捉えられており、それが韓国の文化や政治と深く関わっている点を冷静に綴る。韓国のナショナリズムに対して、自国の歴史の完全正当化と韓国への罵倒をもって応えるのは芸がない。反対にただ謝罪するだけでも芸がない。謝罪するだけでは、関係の改善は望めない。結局、いい/悪いの話をいくらしても埒が開かない(いい/悪い、正しい/間違っているの議論は、議論が深まらない)。同じ資料を共有し合い、問題の所在を追究し、反論の余地のない部分まで議論を詰めていくしかない(資料のコーパスがずれていたら、同じテーマでも全く異なる結論が出る)。しかし、本当に問題なのは韓国のナショナリズムでも日本の嫌韓流でもなく、両国の間に対話のテーブルが政治的にも文化的にも存在しないことにある。このテーブルをどうにかして作らない限り、両者のみせかけの対話は不毛な感情論に終始することだろう。「韓流」とかチョ・ナンカンなんかで見せかけの交流をいくらやってもしょうがない。両国の有名人ないし芸能人は、例え一時的であろうと国境を非政治的に越える力を持っているのだから、どうか政治的な関心を持っていただきたい。商売だけじゃなくてね。市場だけではなく、公共圏が切り開けたら、きっと両国はいい関係を築けるでしょう。両国の研究者も、できる限り国際的な交流を持つ努力をしなければならない、と思う。互いの尊厳を尊重してね。ああ、正論過ぎるか。