「テクスト」としての馬柱、あるいは馬柱としての「テクスト」

 読書、その他。弁当。
 
 世間を見渡してみると、競馬の地位というのはおよそ高いとはいえない。最近でこそ、競馬の騎手や調教師、馬主などがメディアに取り上げられ、ややスポーツ色が強まったとはいえ、依然競馬はスポーツ新聞を見れば一目瞭然、ギャンブルに括られる。いや、一義的には競馬はギャンブルでなければならない。ギャンブルであるがゆえに、その収益をもとにその世界に携わるものが生計を立てることができる。競技者や生産者にとって、競馬は生活の糧でしかない。他方、テレビドラマや映画の類を見渡せば一目瞭然、競馬とは消費者にとっては一攫千金の宝の山である。射幸心は競馬のビシネスを潤し、また消費者の金銭的欲望を刺激する。そうした往還の中に競馬は存在する。お馬さんはそんなこととは露知らず、今日もターフをダートを障害レースを駆け抜けるのである。ぱかぱか。
 私もかつてはその往還の中にいた。いやその中に嵌っていた、という方が正鵠を射ているか。結果、数年の間に新車が一台買える程度の現金が外れ馬券に変わって行った。どこにでもいる馬鹿学生である。歩いて帰ったこと数知れず、取り戻そうとして更にどつぼに嵌ったこと数知れず。しかし、今思い起こせば知識も教養もない私にとって競馬こそが唯一の師だったことに気付く。あまりに厳しい師ではあったが。
 競馬の何が面白かったか。たいていの人は当たった瞬間という答えになるのではないか。少し悟りを開いた人は馬券に関係なく好きな馬が勝った瞬間と答えるだろう。JRAの思う壺である。私は多分さらにぶっ飛んでいた。予想するのが楽しかったのである。月曜日に「週間・競馬ブック」、火曜日に「ギャロップ」、そして木曜日と金曜日にはスポーツ新聞で追い切り(馬の調子を判断する予行演習)をチェックし、金曜の夕方と土曜日の夕方には競馬新聞。ロシア民謡で歌えば、これほどつまらない1週間もない。滅多にない大勝を収めたときには飲んでなくなるし、小さく勝ってもこうした類のものを買うために消えていく。金銭的に考えればどう見ても不毛な営みである。しかし、それでも競馬は師足り得る。競馬はビジネスであり、スポーツであると同時に「テクスト」でもあるからだ。
 競馬好き、と答える人で馬柱(ばちゅう)が読めない人はまずいないだろう。メディアによって表記の仕方はやや異なるが、基本は同じである。この馬柱こそ何を隠そう宝の山である(凄くバカな響きではあるが)。馬名の隣にあるのは、その馬の父と母、そして母の父である。これがその馬の血統的背景を指し示す。下の方に目を移すと、その馬の戦跡や着順、着差、距離、レース名、レースが行われる競馬場、当日の馬場状態、天候、ペース、経過順位といった情報が所狭しと並ぶ。詳しい馬柱になると、該当レースと同距離のレースの戦績、同競馬場の戦績、休み明けの戦績、調教の時計なども付け加えられる。これを総合すると膨大な情報になる。なぜこれほどの情報が必要になるのかいえば、競馬こそは何を隠そう「差異のシステム」だからだ(アホっぽい響きではあるが)。
 まず、馬には個性がある。気性が荒くて抑えの効かない馬は始めから先頭に立つ必要があるし、先頭に立つとソラを使う(手を抜く)馬は後ろから行った方がいい。現代競馬で最重要視される瞬発力もこれらの戦法を左右する。枠順も馬にとって重要である。人間と同じように、馬にも臆病なやつがいて、これがたくさんの馬に包まれる内枠に当たってしまうと力をうまく発揮できなかったりする。血統もいわずもがな。長い距離に適した馬から短い距離で力を発揮する馬もいる。さらにいえば、蹄の大きさや走法で雨が降ったら困る馬もいる。調教で走る馬もいれば、全く走らない馬もいる。休み明けでもいきなり全開の馬もいれば、何回かレースを走らないと駄目な馬もいる。競馬場にも個性がある。左回り/右回りの違いはもちろんのこと(サウスポーの馬なんかが左右される)、一周の距離が短い(つまり同じ距離を走るにしてもコーナーをたくさん回らなければならない)競馬場もあれば、ゴール前の直線に坂があったり、コーナーに坂があったりする。馬場状態も日々刻々と変わる。内側が荒れていたり、仮柵(内側にある柵)を移動させて内側に状態のいい芝があったり。ダートコースも競馬場によって砂質が異なる。力が要る競馬場もあれば、そうでもない競馬場もある。と、競馬の世界は無数の「違い」で埋め尽くされており、馬柱を読み解くものはその違いを関係付けて評価しなければならない。しかも、その情報には馬柱に現れないものもある。坂が得意とか苦手といった情報は戦績が少ない馬の場合、調教師も把握していないことが多いし、多頭数の競馬を経験していない馬やハイペースの競馬を知らない馬などを判別するにはこちらから能動的に読み込んでいくしかない。騎手の作戦もよくわからない。調教師のコメントや調教の仕方、過去の戦績、他の馬の脚質(逃げとか追い込みとか)から推測するしかない。競馬は「差異のシステム」なのだけど、馬柱に全ての違いが書いてあるわけではない。馬柱を「テクスト」として読むものは、馬柱に現れる差異を論理的に処理するだけではなく、その向こう側に隠れている差異をも補足し、処理しなければならない。ここで問われているのは、つまり、情報を総合する力と情報処理能力である。かくして、ああでもないこうでもないと右往左往する羽目になる。
 ただ注意しなければならないのは、馬柱を「テクスト」として読めるからといって、馬券が当たるわけではない、ということである。私自身、わけのわからない姓名判断でバシバシ当てるオヤジや「今日は○○日だから×を引くとこれ」とかなんとかで万馬券を簡単に当てるおばさんに数限りなく遭遇している。私のやり方は馬券術としては絶望的なまでに効率が悪く、しかも栄光の記憶は殆どない。しかし、ほとんど本を読まなかった私の学生生活を省みる限り、儲からない馬券術であっても、私にとてつもない徒労感と貧乏生活と共に幾ばくかの文化資本を残してくれたという点で愛さずにはおれないのである。ただ競馬をやらずに競馬新聞を買って馬柱を眺めるのはお奨めしない。今月の家賃や授業料といったとてつもない掛け金を賭してこそ、人は真剣に競馬新聞を読むのである。私にとって競馬とは、ギャンブルでもスポーツでもない一介のテクストである、というのはハズレ馬券を数限りなく破いてきた敗者の言い訳に過ぎないのかもしれないが。