マグダラ

 もろもろ。弁当+鯵刺し。
 
 

マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)

マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)

 マグダラのマリアといえば、娼婦をイメージするところだが、どうも聖書や福音書外典の記述を総合する限り、そのイメージは極めて曖昧なようだ。しかし、読みものの宿命、やがて解釈によってその像は他のマリアのイメージなどと統合され、1215年のラテラノ公会議以降、懺悔・説教・聖画像崇拝という教会側の指導方針に合致する肖像=修辞(figure)として利用されるようになる。陰のある世俗的聖人であるがゆえ、マグダラのマリアの人気は絶大で、特に自己同一化を果たしやすい娼婦にとってはまさしくイコン的存在だった。時同じくして13世紀以降、回心して足を洗った元娼婦たちを収容する修道院や施設が大々的に建設され始めており、マグダラのマリアはそうした尼僧たちの模範となった。
 
 ところが話はそう単純でもなく、元来強引な解釈で創られたマグダラのマリア像は再生産されていくたびに揺らぐことになる。特に高級娼婦を教皇枢機卿さえも囲っていた時代にあって、娼婦から聖人へという単純な改悛物語ばかりが人気を博すわけではない。マグダラのマリア像の中に高級娼婦の反影が覗くのである。
 ルネッサンスがヴィーナスによって象徴されるとするならば、バロックマグダラのマリアによって代表されるという。「矛盾する原理や対立する感情、両義性や多義性への嗜好」がバロック芸術の主たる特徴であるならば、マグダラのマリアこそは時代を映す鏡であったということになるだろう。18世紀以降の「ファム・ファタール」、性に対して抑圧的だったヴィクトリアニズム、そしてエキゾチックな視線を誘うオリエンタリズムといったあたりとの関連も見逃せない。個人的にはフラッパーなどの悪女列伝との関わりにも興味がある。「ウァニタス」と「メランコリー」の両立とか。
 フィレンツェ関連では、メディチ家と覇を競ったジロラモ・サヴォナローラの影響を受けたボッティチェッリの晩年の作品が面白い。メディチ家はアンナ崇拝で有名だが、サヴォナローラのサン・マルコ修道院マグダラのマリアがご本尊。この辺の対抗意識、そしてメディチによるフィレンツェ支配を民衆が過去の過ちとして認め、改悛する、という文脈も読み取れる。なるほど。
 マリアの場合、画家や神学者たちは、彼女が完璧(処女懐胎)すぎるがゆえに、その完璧さを表現する方法に頭を悩ませたのだとすれば、マグダラのマリアの場合、世俗に限りなく近い聖人であるがゆえに、民衆の共感を得られる範囲で聖化するというバランスが難しかったような。その辺のマリア比較論なんかも読んでみたい。
 どうでもいいが、女性の胸をリンゴに喩える古代以来の伝統を念頭に置くなら、あのローラースケート軍団の「パラダイス銀河」(http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35917)は、大人になる前の男の子が、一足先に大人になる同世代の女の子に対して呼びかけている歌なのだな、という感じがする。「胸の林檎むいて」っていうのは、胸の中に秘めた思いを外的に曝すという観念的な表現である(と、当時は思っていた)というより、むしろ即物的な乳房を曝すストリップ行為を奨励(あるいは命令)する表現なのかも。「心の傘」とか「夢の島」とか「愛の言葉」とかロマンチックな表現が続くが、中盤になると急に「シーツ」だの「ベッド」だのが出てきて、単に純愛のきれいごとを歌っているわけじゃないことが明らかになる。「大人は見えない」ものを探求するとか青臭いロマンチックなこといっといて、結局は女の子をベッドに連れ込みたいだけ。そこらへんのおっさんと変わらんじゃないか。あ、だってチャゲアスだもんね、これ書いたの。