差別原論

 もろもろ。やきそば。残り物をかき集める。

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新書367差別原論 (平凡社新書)

新書367差別原論 (平凡社新書)

 「差別してはいけません」とか「他人事ではなく自分のこととして差別を考えよう」といった正しすぎるお題目が差別問題を硬直させる<構え>を作っていると批判した上で、差別することをほとんど当然のこととして捉え、当事者との関係、差別問題との関係をより複雑で豊かな関係へと開いていこう、と唱える本。読み始め、トンデモ本かとも思ったが、内容自体は至極まとも。

 ただ、差別に向き合う際の<構え>や<ぎこちなさ>といった硬直した姿勢から解き放たれたとしても、その後、豊かに<生き生き>とした関係を永続的に差別問題、ないしは被差別者と結べるかといえばそうではないような気がする。むしろ、政治的に正しい当たり前のお題目にべったり寄り添う<死んだ>対応とその壁を突き崩すことで得られる<生き生き>した対応との間には、何らかの往還があって然るべきなのではないか。お前は既に死んでいる。早く生き返れ。そんなにうまくいくだろうか。
 差別問題改善の糸口は、政治的正しさの側にも政治的正しさの向こう側にも、そしてもちろん差別を肯定する生き方にもなく、その三叉路で引き裂かれる中で見出していくものであるような気がする。政治的正しさであろうと差別意識であろうと、そうした「当たり前」を疑うことは、当人たちにとっては日常的な営為であるというよりも、時々しかできない非日常的な経験である。いつも疑え、というのはあまりにしんどい。いつも疑っていられるのは、それを職業としている一握りの人間だけである。政治的正しさの向こう側を確保していられる人にとって、疑うというのはそれほど難しいことではないかもしれない。けれど、世の中はほとんど信じることで回っている。疑える人ができることは、疑う立場のサークルになかなか疑うことができない人たちを囲い込むことではなく、信じることで回っている世の中から時々連れ出してあげることぐらいである。全員がいつも疑う学者になんてなれないからといって悲観する必要もないし、そんな悩んでばかりの世の中に住みたいとは思わない。できることといえば、そうした揺さぶりを度々<構え>に与えることで、<死後硬直>して硬化した態度も徐々に<生気>を帯びてくるだろう、と期待を抱くくらいのことしかないのではないか。この本の役割は、当たり前の世界から人々を解放することではなく、その人々にその世界の(無)根拠を垣間見せる程度のことだろう。もちろん、その程度のことが、差別主義や政治的正しさしか知らない人にとっては大きな一歩であることは言うまでもない。差別問題が解決困難なのは、信じる立場から疑う立場へのショートカットが実現不可能で、入り組んだ迂路をもってしか改善する見込みがないからだと思う。
 それから障害者が自分の障害を、ひいては健常者/障害者を成り立たせているコンテクストそのものを撹乱する笑いの行為遂行性に関してはその有効性に疑問。結局、障害を笑うことができるのは障害者だけである。障害者が引き起こす笑いが境界を揺さぶるのだとしても、その笑いによって行為者となる障害者と常にそれを受け取る側としかなりえない健常者との間に非対称性が生じる。日常的な健常/障害という非対称性を逆転させただけで、その「/」が揺らぐような契機は見えない。健常/障害という非対称性を再生産することなく、健常者が障害者をネタにし、両者の非対称性を撹乱する笑いが生まれうるのだとしたら、それはどんな笑いなのか。バトラーも含めて今後の課題なのではないか。加えて、仲正がどのように批判するか、ちょっと見てみたい。