硫黄島からの手紙

 もろもろ。豚トロ。
 テレ朝が絵描いてるんじゃないのか、この試合展開は。午前中は若人のアルゼンチンvsメキシコ。甲子園みたいなもんだ。ドス・サントスは何もできなかった。この年齢の一流選手たちが一度はぶつかる壁。乗り越えて欲しい。甲子園はまあ置いといて、カープもうだめだなあ、今季は。黒田ぐらいしか話題にならない。投手陣だなあ、もう10年ぐらい言われてることだけど。
 
 

硫黄島からの手紙 期間限定版 [DVD]

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 日本本土への直接爆撃を巡る地政学的要衝の地、硫黄島を舞台に、戦時下の抑圧を地中に埋められた手紙として表象する戦争映画。以下、とりとめない、まとまりのないただの感想。
 冒頭、栗林中将の埋められた手紙を発掘調査する映像(2005)。引き続いて海岸で塹壕を掘る兵卒(西郷)の映像(1944)。掘るという行為と地中へ注意を向ける。続いて戦闘機で硫黄島へやってくる栗林中将。空と地上(地下)の対比。怒られる西郷と怒鳴りつける上官。西郷をやや上の目線から撮ることで、その目線を向ける上官の立場を空間的に表現。到着するや、栗林中将は塹壕堀りをやめさせる。硫黄島における権力関係の構図が空・地上・地下という形で階層的に表現される。
 栗林中将は洞窟を掘って引きこもる作戦を立てる。空から敵機襲来。日本軍は洞窟の中に引きこもり、持久戦を展開。栗林中将の下、日本軍は「天皇万歳」を合言葉に結集する。しかし、戦闘の中で日本軍は必ずしも一枚岩でないことを露呈する(それ以前にも伏線アリ)。栗林中将に反感を抱く下士官たちは、しばしば命令を無視する。「武士道精神」に忠実に自決を選ぶ者。軍を離れ、洞窟の外で戦車を道連れに死のうとする者。逃亡を図ろうとするもの。最後まで鬼畜米英を貫き通す者。アメリカ兵の捕虜に自分たちと共通の何かを見出す者。地中奥深くの洞穴で、日本軍は天皇の御旗のもとで見せる統一性とはかけ離れた多様性を見せ、胸の内を吐露していく。戦時下で抑圧された日本兵の内面が、外部から遮断された孤島の米軍に囲まれた洞窟という抑圧された環境の中で詳らかにされる。
 他方、アメリカ兵の側も必ずしも一枚岩ではないことが明らかになる。恐怖に駆られ逃亡した清水らは、アメリカ兵に保護されるも、見張り役に飽きた兵卒に撃ち殺される。かと思えば、最終場面、栗林の拳銃をアメリカ兵が所持しているのを見た西郷が半狂乱でスコップを持って殴りかかった際には、撃てる状況であるにも拘らずアメリカ兵は自制し、西郷の確保に努める。
 このような日本軍・アメリカ軍に見られる多様性は、両軍がお互いに相手の隠された部分を知らず、またそれぞれ味方のことも十分に知らないという無知に行き着く。そして、その無知とは、位相的にそしてまた現実に日本軍の心の内奥を曝されるという意味において内面世界を表象する、洞窟という地下空間の抑圧に凝縮されている。そして、内面世界の抑圧は、両軍ともが(戦争)イデオロギーに忠実であることを強要され、個の内面を排除していた戦時下の問題というだけではなく、地中に埋められた栗林中将の手紙が2005年に至ってようやく日の目を見るという設定からも明らかなように、その存在を認め理解する立場にある戦後の問題でもある。
 また、物語序盤の手紙の検閲の場面が伏線となり、洞窟で書かれる手紙が検閲のかからない内面の吐露であることが強調されている点も重要。私は知覧の特攻基地跡にある記念館を何度も訪れているが、あの文面の見事さは検閲の存在の強力さを如実に物語っているように思える。公人としての立派さは、内面生活の抑圧のもとに成り立っているのではないか。その点を念頭に置くならば、本作の洞窟の中で書かれる手紙は、戦時下に置かれた公僕に、検閲のかからない内面世界の存在を認めるものに他ならない。
 当然ながら、それは(戦争)イデオロギーからの自由を意味するわけではない。洞窟の中にあっても、日本軍は(戦争)イデオロギーに縛られている。自らの手紙を全て焼き払うように命じ、部下に首を刎ねるように求める栗林中将の死に様はその最たる例証であるし、何よりも内面生活の吐露である手紙自体が、日本にいる家族には決して届かないことを想定して書かれたものである点は見逃すことができない。援軍の見込めない絶海の孤島で書かれた決して届かない手紙にのみ、つまり誰にも見出してもらえない、初めから存在しない手紙にのみ、検閲を受けない内面世界は綴られるのである。手紙は検閲の有無を問わず、(戦争)イデオロギーの強力さを立証する。
 それでもなお、(戦争)イデオロギーから(相対的に)自由な主体を想像することは重要である。本作の西郷は、周囲とは全く異なる話しぶり・考え方からして首尾一貫して(戦争)イデオロギーから自由な主体として描かれる(保留。元憲兵清水が監視しているのではないか、洞窟内部=内面世界も検閲されているのではないかという疑念)。戦争の胡散臭さをしきりに口にし、上官の無能さを噂し、生きることだけを欲する西郷は、日本軍の異分子となる。しかし、生まれたばかりのわが子に会いたいと訴える西郷に手紙を燃やす役を命じ、その他の兵を連れて死地に赴く栗林は、暗に(戦争)イデオロギーから自由な西郷の生存を祈り、そこから自由になれない自分たちの犠牲を厭わない。この点において、西郷は戦後の主体として、また現代を生きる観客に近い存在として想定されているといえる。(戦争)イデオロギーの外部としての内面世界を表象する手紙を焼けと命じ、あくまで(戦争)イデオロギーに忠実に死んでいく栗林。そして、栗林の命令に背き、手紙を洞窟内部に埋める西郷。燃やされるはずだった手紙を引き受けるものの責任は重い。手紙の発見で始まり、手紙の隠蔽で終わるこの物語は、手紙に込められた内面世界を読み解くと同時に、発見と隠蔽の間に位置する手紙が書かれる過程を想像する行為をも求めているように思える。それこそが、(戦争)イデオロギーと距離をとる唯一の方法だと思う。

[追記] your conviction/ your contry's conviction
帝国のメディアとしての無線/個のメディアとしての手紙