オレはウルトラマン

 もろもろ。掃除。夏バテ対策で納豆長いもそば。
 いやあ、暑いんだろうなあやっぱり、というようなゲーム。アメリカW杯を思い出した。カワグチはPKのW杯があったら間違いなく代表だろう。よう止めるわ。

 続・『マルクスの現在』。
 ラテンアメリカネグリの思想がアクチュアリティをもつうんぬんの話はすっ飛ばして、浅田・柄谷。マルクスの特異性を、疎外論でも剰余価値でも階級闘争でもなく、労働者が生産者であると同時に消費者でもあるという点に、さらに交換価値ばかりに注目するのではなく使用価値が認められなければ商品は売れず剰余価値は実現されないという点に求めた柄谷の卓見は、あのデビュー作から数十年経った今も色あせていないと思う。そういう見方の変化、視点の変遷、つまり視差そのものが「トランスクリティーク」であり、そういう絶えざる移動の中でしか超越論的(超越的ではない)な分析はできない。何らかの視点に依拠するのではなく、あるかどうか証明はできないけれどもそれがあると想定することでうまく世の中を説明できる「構成概念」のようなものを、視点の移動の中で見出していく/編み出していくというようなことだろう。ということは、柄谷はやはり構造主義に基盤を持ちながら、決してひとつの構成概念に安住しない反構造主義的な性向をも持ち合わせた人なのだろう。
 ネグリを批判した件はその通りだと思う。結局、いきなりトランスナショナルな次元から始めても、そのなかの諸要素がどのように接続するのかが極めて曖昧なまま。「ナショナルな問題をふまえた上でインターナショナルな問題を考えるというスタンス」は、トランスナショナルな世の中だからこそ必要だと思う。*1
 それはそうと、この講演の質疑応答が大変怖い。喩えるならば、「ウルトラマンは兄弟ですよね?」という質問に対し、「他のやつなんか知るか。うるせえ、オレがウルトラマンだ、文句あるか」。文句ありません。木で鼻をくくるような、というか大木で顔面を大根おろし状に顔面ウォッシュするかのような一撃に、この臥竜鳳雛さんもさぞたじろいだに違いない。こんなこと言われたら、四半世紀は立ち直れないよなあ、多分。ここカットでよかったんじゃないか。
 

*1:そういえば、国民国家論の話をしたら「ああ、あの終わったやつね」と一蹴した方がかつておられたが、「終わった」ときというのはだいたいそれがリアルというか常識になったときで、それを考慮しないと立ち行かない世の中になったということだと思うので、「終わった、はいさよなら」というのはあまりに傲慢というかなんというか。多分、ある意味「終わっている」方なのだろう。