日朝関係の克服

 もろもろ。ネジがいかれていたため、換気扇を外すのに苦労する。サバその他の煮付け。
 嫁がボートマッチをやったところ、新党日本。家庭内保守分裂。抵抗戦力との戦いは、艱難辛苦が予想される。

 政党と市民の主義主張の近さと遠さを明示してくれる毎日ボートマッチhttp://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/senkyo/07saninsen/votematch/etc/index.html。自分の選挙区の候補者との比較もしてくれるのでわかりやすい。今回、自分は与党寄りなのだなと実感。もっとも、どこにも信頼は置いていないわけだが。汚職には絡まない「確かな野党」としての共産党には信頼を置いている一方で、政権政党となるとどこも・・・。とにもかくにも、このボートマッチ、選択肢が極端すぎるきらいはあるものの、ひとつの目安としてなかなかよいと思う。

 2003年の5月に上梓した同名単著の増補版。日本と北朝鮮の関係を中軸に、東アジア情勢や対米関係にも目配りしつつ、歴史的な問題点を列挙していく。
 「現実を批判するのは現実ではなく、理想だけが現実を批判しうるのである」という末尾での表明が端的に物語るように、本書では著者の掲げる「東北アジア共同の家」というヴィジョンから演繹的に導き出された歴史認識が披露される。際立ったところで言えば、著者は、あくまで北朝鮮との国交正常化を最優先し、拉致問題の際の相手のメンツを潰す対応を批判する。切るべきカードを全て切ってしまった北朝鮮に対し、拉致被害者の一時帰国を永住へと強引に方針転換した日本政府の対応は、北朝鮮の軟化しかけた態度を再び硬化させてしまった(かなり勇気のいる発言だと思う)。引き続く、金正日体制の崩壊と拉致問題解決とを結びつける「暴論」がまかり通る現状では、拉致問題解決も国交正常化もありえない。まずは金体制の維持を保証した上で、日本に帰国している拉致被害者北朝鮮にいる家族と面会させ、段階的に他の拉致被害者の真相を究明していけばよい。著者の北朝鮮に対する認識は、彼の国が正常な国際関係を築く意思を有しているという前提の下にあり、その北朝鮮像は紛れもなく東北アジアがひとつの経済的/政治的ブロックを形成するという最終目的の過渡を成す。軍事的解決が現実的ではない以上、6カ国協議を主軸とした対話路線を取らざるを得ない現状からいって、著者のヴィジョンは必ずしも理想主義的とは思えない。むしろ、現実的であるとすらいえる。
 ただ、著者の記述には理想に引きずられ過ぎているきらいも多少はある。民放各局のワイドショーに見られる北朝鮮=悪の権化という図式が誇張に過ぎるものだというのは認めるにしても、北朝鮮を「アウトローの犯罪集団では決してない」と言い切り、「だからこそ、日本政府は、北朝鮮を国交正常化交渉のカウンターパート(相手)として認知し、共同宣言をまとめた」と断言する根拠はどこにもない。韓国の太陽政策に対する記述にもそうした偏りは顔を覗かせる。「韓国にとって、『北』はもはや『敵』ではなく、共存、あるいは統合されるべき『友』とみなされているのだ」と断言する著者の視界に、韓国国内で差別される北朝鮮からの脱北者の現状や韓国政府の苦渋に満ちた対応は微塵も過ぎらない。北朝鮮のとる威嚇と対話という二面的な政策に翻弄される現状からいって、日本がそれに対して敵対的であり、韓国が友好的であるというような一面的な断定は避けなければならない。ましてや、北朝鮮の対話を求める姿勢のみを前景化するのは、公平さに欠ける。歴史的な背景が北朝鮮を威嚇的に成型したとはいえ、北朝鮮問題が解決困難なのは彼の国が軍事的威嚇を外交戦術のひとつとしているからに他ならない。対話だけを求める国であるならば、そもそもこれほど問題にはならない。
 もちろん、著者のヴィジョンが戦略的なものである以上、こうした論難も、論の土台を揺るがせるどころかせいぜいその片隅に擦れば消えるかすり傷をつける程度のものであることはいうまでもない。ひとつの極へと傾く世論に均衡を取り戻すためには、それに対抗する強力なヴィジョンが必要なのも理解できる。ただ、ナショナリスト系の主張と同じ愚を犯さないためにも、バランスには気を配る必要があると思う。
 本書を通じて初めて知ったことのひとつは、1965年にアメリカの冷戦外交を背景に締結された日韓条約の第2条と第3条が日韓関係の無視できない争点となったということ。

第二条 [旧条約の無効] 千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。

第三条 [大韓民国政府の地位] 大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。(http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%9D%A1%E7%B4%84

第2条は日韓併合条約の合法性/違法性に関わる問題を内包している。つまり、日本の植民地支配が国際法的に妥当であったのかどうか(道義的観点から日本は謝罪を重ねている)。第3条は、韓国政府こそが朝鮮半島に存在する唯一の合法政府であるものと解釈すべきか、韓国側が休戦ラインより南側を実質的に管理している事実を確認したと解釈すべきか。韓国が朝鮮半島における正統な国家である(つまり北朝鮮は韓国の傍流に過ぎない)のか、北朝鮮を韓国と同等の正統性をもつ国家とみなし、独自かつ別個の交渉の余地が残っていると見るべきか。この辺は、冷戦下の韓国における軍事独裁が正統性を得るために重要だったと考えられ、日本と北朝鮮の関係がほぼ断たれてきた長い年月の意味を考える上では欠かすことができない。
 ふたつめは、1970年代に米国が中国へと接近し、韓国の国際的孤立の可能性が高まる中で、核の開発に踏み切った韓国と現在の北朝鮮の姿がよく似ているということ。これは「孤立化に追いやるような封じ込めは、柔軟性を失った硬直的な体制が核への誘惑へと走る傾向を強めてしまう」という好個の例であり、教訓であるように思う。
 みっつめは、平壌宣言の戦後補償に関する条項について。当時、拉致問題の方に報道が傾きすぎて、この条項はあまり注目されなかったように思う。
 

2.日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。
 双方は、日本側が朝鮮民主主義人民共和国側に対して、国交正常化の後、双方が適切と考える期間にわたり、無償資金協力、低金利の長期借款供与及び国際機関を通じた人道主義的支援等の経済協力を実施し、また、民間経済活動を支援する見地から国際協力銀行等による融資、信用供与等が実施されることが、この宣言の精神に合致するとの基本認識の下、国交正常化交渉において、経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することとした。
 双方は、国交正常化を実現するにあたっては、1945年8月15日以前に生じた事由に基づく両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄するとの基本原則に従い、国交正常化交渉においてこれを具体的に協議することとした。
 双方は、在日朝鮮人の地位に関する問題及び文化財の問題については、国交正常化交渉において誠実に協議することとした。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/n_korea_02/sengen.html

日韓条約の場合と同じく、北朝鮮は賠償請求権を放棄し、「経済協力」という形で妥結している。しかし、是が非でも経済協力の欲しかった北朝鮮が、早晩米朝関係を改善し、米側から経済協力を得るとすれば、もはや譲歩は必要ない。日本が今後国交正常化と拉致問題解決を図るには、日本側が譲歩するしかなくなるのではないか。その場合の譲歩は、必然的に戦争責任に踏み込んだものにならざるを得なくなるのではないか。少なくとも、「経済協力」という名目が「国家賠償」へと変わるぐらいの譲歩がなければ、北朝鮮は日本との関係改善に向けて努力しないのではないか。韓国国民は今でも「国家賠償」へのこだわりを見せているようだし、事態は予断を許さない。拉致被害者への誤った対応で閉ざされてしまった*1北朝鮮との対話の回路は、もはや少々のウルトラCではどうにもならないように思う。著者のヴィジョンはひとつの良識として評価するにしても、それを実現するのはもはや困難であり、体制の崩壊をただひたすら祈るか、なんらかの譲歩によって打開するしかないだろうと思う。著者の説く拉致被害者の訪朝の前に、妥協がなければ北朝鮮は動かないような気がする。当然ながら、私は専門家ではないので、これはあくまで素人の雑感に留まる。

*1:拉致被害者家族の会の主張は心情的には理解できるものの、どう考えてもミスリードだったと思う。被害者の永住という強硬な決断によって閉ざされた対話の回路は、より強硬な経済制裁発動では開かれない。背後に(右翼系?)運動のために運動をしてらっしゃる方々の存在を疑う。