アメリカン・ギャングスター

 久しぶりに映画館に行こうかということで。
 映画館のトイレ標識が “Mens” と “Ladies”。ワーナーは、英語帝国主義に疑問を抱いているようだ。
 それから映画までTーカードが進出していたことにびっくり。そのうち全国津々浦々までポイントカードの全国統一が達成される日も、あるいは近いのかもしれない。
 それはさておき、実話に基づく黒人マフィア映画(http://americangangster.jp/)。以下、ネタバレなしの感想。
 監督は『エイリアン』、『ブレードランナー』のリドリー・スコット。イタリアン・マフィアの系譜を引き継ぎ、一族の絆を麻薬販売網へと転化し、太平洋を股にかけた麻薬取引でニューヨークを仕切る黒人マフィアにデンゼル・ワシントン(フランク・ルーカス)。*1腐敗の進んだ警察組織の中にあってまれに見る真っ正直な正義の人でありながら、同じく女性関係においても本能に真摯に付き合うがゆえに家庭崩壊、冴えない風采の麻薬捜査官にラッセル・クロウ(リッチー)。概要は→http://www.cinemaonline.jp/bei_review/2007/072.php
 歴史の上澄みだけを掬えば、なんでも白黒はっきり分かれて整理もしやすい。けれども、低層には、上層から沈んできたものや下層の中で澱になっているもの、もがきながらも同じところを回っているもの、じっと動かず機会を窺うもの、様々な立場が渾然一体となって混沌を秩序立てる。本作の舞台は、ポスト公民権運動期、そしてベトナム戦争真っ只中の1968年、いまだ社会の流動性が落としどころを探って徘徊を続けている、そんな時代*2。警察はマフィアを利用し、マフィアは警察を手なづけ、白人も黒人も男も女も、ドラッグに、ディスコミュージックに酔う。そんな混沌を背景に、麻薬捜査が繰り広げられる。観客も小出しにされるマフィアと捜査と汚職の逸話の数々を、捜査の進展に応じて少しずつ整理しながら観賞することになる。捜査が物語を整理する役も負っている。ありがちだけど。
 イタリア仕込みの家族主義と離婚寸前夫婦の家庭崩壊。質素な禁欲主義と貪婪な官能の世界。そして、黒人と白人。フランクとリッチーの間に様々な二項対立関係を想定することも可能だし、そういう整理も楽でいい。しかし、両者の違いの向こうにだんだんつながりがうっすら浮かんできて、最後のオチにつながっていく展開を追いながら、二人の関係を眺めてみるのもまた楽しい*3。その意味では、汚職刑事トルーポのポジションはなかなか興味深いところ。*4
 他では、主役2人の身体的な対照性も目を引いた。シルエットの美しいワシントンの佇まいはいつものことながら、太ったという噂は聞いていたがラッセル・クロウのこの体は役作りの帰結なのか。『グラディエーター』の人? 役柄には嵌っているのだけど。
 暴力の苛烈さは、2時間40分の大作映画を飽きずに観るにはいいスパイス。それに加えて、ブラック・ミュージックも見所、というか聞きどころ。ラスト、それから物語の設定を勘案すると、『ゴッドファーザー』の影響は明白。

[追記] 物語の最初でフランクの尊敬するバンビー・ジョンソンが急死する場面。あそこでバンビーは、生産者と消費者を媒介する仲介者を省くな、と忠告する。これを古きよき流通ビジネスとそれを押し流す新しいビジネスモデルとの相克として素直に捉え、フランクの成りあがりをこの遺言に背き、中間層を排除するという画期的アイディアの実現として解釈するのは、一次的な読みとして正確だと思う。そこで思いついたのだが、物語の構造自体が中間の排除を原理としていないか、ということ。上澄みと低層だけで世界ができあがっているような。その歪みを利して、フランクは一時代を築き、またこの映画もそれ自体歪みを構造化しているのではないか。ただの思いつき。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9

*2:アリやキング牧師などなど、文化的イコンもよく出てくる。

*3:最後のオチが少々弱いのは、実話に基づく設定の限界なのだろう。物語よりも、人物描写を楽しむべき映画なのかもしれない。

*4:家の土台を齧るネズミを退治するのは当然としても、それを捕獲する猫がまったく働かず、ネズミと一緒に土台を齧っているとすれば、ネズミ以上にたちが悪い。まずは、ネズミを捕らえるよりも猫の更生からということか。