文藝春秋のおもしろさに虚を衝かれる

 川上未映子という女性が、芥川賞を受賞したと聞いた。芥川賞受賞作はとんとチェックしていないし、同居人が買ってきた蛇がどうしたピアスがどうしたというお話も読み始めて数ページで挫折したので、もはや芥川賞受賞と聞いてもなんの感慨も起きない。相性が悪いのだろう。そんな私が今回受賞作を掲載した『文藝春秋』を手にとって、あろうことかレジまで持っていき、大枚をじゃらじゃらはたいたのにはわけがある。受賞作とともに掲載された作家のインタヴュー、題して「家には本が一冊もなかった」。大きく出た。一冊ぐらいあるだろう。まるで、テスト前に「オレ、全然、勉強してねえよ、どうしよう」と散々自分がいかに不勉強な怠惰人間なのかを力説しておきながら、結果、羨まれるわけでも蔑まれるわけでもない、ごくフツーの点をとってくる中途半端な優等生みたいだ。結構勉強したんだろ、ほんとは、と誰しもが思う。
 惹句に一本釣りされていることなど都合よく忘れて、小さな悪態をつきながら、モスバーガーのテーブルで読んでいると、あれおもしろい。おもしろいじゃないか、川上、ではなくて『文藝春秋』。川上さんのインタヴューのあれはまあほんとにただの惹句で、オチとしてもいまいちだし、受賞作にはまるで入り込めなかったのでこの際どうでもよい。*1 そんなことよりも『文藝春秋』そのものがおもしろい。
 悪役レスラーの典型、アブドーラ・ザ・ブッチャーに、お前ら日本人は・・・と説教されるのは実に新鮮で、ハートをフォークでめった刺しにされる。佐野元春が、立教で詩を教授しているというのにもびっくりする。佐野元春がポエム。

詩はただ活字として紙の中に収まっているものではないし、観念的な部分で終始するものでもない。詩は言葉の意味も含めて一秒一秒変容しながら相手に伝わり、動き働いていく。

ほおお。エクリチュールでんな。とか思いながらページを繰ると、今度は松本隆が「はっぴいえんど」から歌謡曲に至る流れをおさらいして、彼の思想のようなものを語っている。その思想のようなものに対しては、言葉や言語をもっと大事にしようよ、とか、今の日本の音楽シーンを外来種に汚染された状態とみなすような凡庸さに満ちていて閉口する。けれども、生き証人による過去の語りは瑞々しい。そして、以下のような日本語ロックの元祖の「書かれた言葉」を佐野のそれと対比するとちょっとおもしろい。

 

普遍性ということでもう少し言えば、言葉というのは、紙に書いた瞬間、固定されてしまうんです。たとえば、「私は痛い」と紙に書けば、その情報が固定されてそこに残る。でも、癒せば痛みも消えるわけで、書かれた言葉は嘘になってしまう。でも、「歌う言葉」は、固定される前の状態で、揺れている。不安定だけど、そのほうが普遍的でいられるような気がする。
 つまり歌の言葉は流動的で、時間についていける。紙に書いた言葉は動かない。だから時代が動くと、取り残されて古くなる。紙に書かれた言葉は死骸のような感じがするんです。僕は生きた言葉を残したい。


 松本は詩を死んだ言葉として退けて、歌詞にエクリチュールの可能性を託す。対して、佐野はロック歌手として歌詞を歌う傍ら、詩集を出版するなど常に詩作に携わり、詩の可能性を追求している。ある地平を共有しているように見えて、ややずれる。詩/歌詞の二項対立に生きる松本と、書かれた詩を詠み、歌と詩のあわいを見つめる佐野。これは世代の差なのだろうか、音楽性の差なのだろうか、あるいはごく個人的な志向の違いなのだろうか。どうでもいいような気がしてきた。
 最もおもしろかったのは、坪内祐三の「エビちゃん」論。レコード大賞での一コマに、小さな空気を読まないで大きな空気を読んだエビちゃんの偉大さを見る。エビちゃん、実はすごいよ。
 というわけで、『文藝春秋』、定期購読するつもりなど毛頭ないけど、意外とおもしろいのだなあ、と蒙を啓かれたのでした。
 
[追記]
 ああ、そうそう、都知事の選評も迫力満点でおもしろかった。

文藝春秋 2008年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2008年 03月号 [雑誌]

*1:話がつまらないとか文章が稚拙だとかいうことではなく、単に私の好き嫌い。