アメリカン・コミュニティ

 降雪のせいで一日遅れの古紙回収。周知できていなかったか、参加者はうちら2人のみ。腰を気遣いながら古紙を荷台に積み込む。3分の1ほど済んだところで援軍が続々到着。助かりました。

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 「ほら、エビちゃんエビちゃん」とかしましく声を上げる嫁の指先に視線を向けると、どう見ても「アブちゃん」だったり。「う○こ」と「うこん」ぐらい違うと思う(失礼)。

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アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所

アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所

 前著『アフター・アメリカ』でサントリー学芸賞を受賞した文化人類学者による共同体論。今回はアメリカ各地に点在する様々なコミュニティを訪れるという主旨なので、ボストンにみっちり腰を据えてフィールドワークをした前著と比べると、濃密度で見劣る。しかし、個別特殊な調査結果と一般普遍の理論的仮説を向かい合わせて考察する姿勢は前著から引き継がれている。本書から、アメリカのコミュニティの全体像とその文化―政治的可能性を総合的に素描していこうという意欲が窺える。
 
 著者が考えるアメリカの理論上の駆動力は、このような感じになる。
 

 社会のなかに様々なカウンター・ディスコース(対抗言説)を擁していること。そうしたディスコースが絶えず生み出されては、せめぎ合っていること。そして、それが許される<自由>。そうした<自由>を自己理解ないし運動律の核としている社会。それは、安易な烙印や批判を拒むと同時に、自らに足払いをかけながら、永遠に革命を続ける手ごわい社会でもある。(34)

 近年マクロなレベルで、対抗言説のせめぎあいをみることが少なくなってきた。猫も杓子も、右見ても左見ても、それほど主張に変わりはない。せいぜい「コークかペプシか」程度の違いがあるだけだ。だからこそ、個と国家との間の緩衝地帯となる共同体が重要になる。今、有効な対抗言説を生み出し、アメリカを駆動させる力を持つのは、大なり小なりアメリカ市民が集う共同体しかありえない。対抗言説が飼いならされて弱体化した形でしか表出しない大きな政治や経済だけでアメリカを捉えるのではなく、その対抗言説が生成する現場としての共同体を活写することこそが、著者にとって喫緊の課題なのだろう。大上段に構えて国家や宗教を大きく扱うのもいいが、先端のアメリカ研究は、いつの時代も微細や巧緻と共にある。
 東西南北満遍なく調査は行われているが、中でも思っていたよりも閉鎖的ではないゲーテッド・コミュニティや人工的に共同体を編成していくメガ・チャーチの章が目を引いた。軽快で、読み物として純粋におもしろい。反面、ビブリオがないのが残念。まあ、それほど多くはないのだろうけど。
 感想。アメリカを語る際、個人主義という言葉が時に独り歩きするが、実は個人主義が個人によって表現されることはないような気がする。個人主義は、あくまでも個が寄り集まって初めて表現される。だから、共同体というのは、個人主義が表現できる最小単位のことを指す。のかなあ。

アフター・アメリカ―ボストニアンの軌跡と<文化の政治学>

アフター・アメリカ―ボストニアンの軌跡と<文化の政治学>