プラスチック・ワード

 昨晩はフェットチーネ。豪勢に生クリームを使ったはいいが、塩を入れすぎて、恐ろしいことになる。「お前が話しかけるからだ」うんぬんかんぬん、上見ぬ鷲よろしく責任転「嫁」。結局、水で薄めて万事解決。生クリームの濃厚さはどこかにいったものの、スープスパだと思えばなかなかいける。

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 本棚を整理していたら、同じ本が出てきたり。同じ本が3冊出てきたら病院を探そう。

プラスチック・ワード―歴史を喪失したことばの蔓延

プラスチック・ワード―歴史を喪失したことばの蔓延

 確か年末に実家に帰るときに買って読んだような記憶がある。何か言っているようで何も言っていない言葉、意味が不確かで可塑性の高い言葉のことを、ペルクゼンは「プラスチック・ワード」と呼び、その濫用に警告を発している。
 理論や現代思想だけではなく、日常言語にも蔓延する「プラスチック・ワード」に対する批判には、一定の意義があると思う。その一方で、つきつめていくとそれこそが言語の本質のような気もする。まあ、人文学なんて可塑性に寄生して呼吸しているようなものではあるが。最近の批評用語のほとんどは、構成概念だったりする。
 それにしても、とらえどころのない言葉は、話の規模を測りかねてコンテクストを限定できない、というのは全くそのとおりだろう。身の丈にあった小さな話をまずはするべきで、その向こうにたくさんの小さな話が寄り集まった大きな世界を喚起できればなお良い。要するに、ちゃんと懇切丁寧に回り道をしろということで、全く耳が痛い。