ファイアボール・ブルース

ファイアボール・ブルース (文春文庫)

ファイアボール・ブルース (文春文庫)

ファイアボール・ブルース〈2〉 (文春文庫)

ファイアボール・ブルース〈2〉 (文春文庫)

 カリスマ女子プロレスラー火渡抄子の激闘の日々を、新人レスラー近田の視点から思い入れたっぷりに語る、あるいは詠む小説。
 モデルは神取忍のようで、団体はLLPWだろうか。女子プロレス史上の逸話がちょいちょい使われている。
 前者はミステリー仕立てで、設定はおもしろいが、あまりうまくいっていない。女子プロレス、ひいてはプロレス界の異端をめぐる人間ドラマがおもしろい。開き直ったか、後者の連作短編では、女子プロレス界のドラマに焦点が当てられ、近田の迷いを掘り下げていく「嫉妬」のあたりからぐっと面白くなる。
 火渡が団体内部の序列に無頓着なのは、彼女が突き抜けた才能を持っているからで、凡庸な付き人・近田はその序列の呪縛から抜け出せない。火渡は才能に限界を感じ引退を決断する近田を翻意させようとするが、近田の意志は固い。火渡が近田に求めているのは、自分と同じように因習的な序列の限界を突き抜けてただひたすら最強の孤高をめざすストイックで孤独な世界への参入なのだろう。しかし、火渡もまたひとりの女子レスラーの死を契機に、孤高の哲学の限界を悟る。
 葬送のあと、火渡は自分を支えようと復帰の意志を告げ、拒絶されてもなお食い下がる近田に「こういう日のために、皆でやってきたのかもしれないから」と言い放つ。一義的には、この科白は女子プロレス界から去った近田が、もはやその世界の住人ではないことを示す拒絶の表明だろう。ただこの科白がリングの上で孤高であることを常に近田に説いてきた火渡のものであることを考慮するなら、ここに火渡の内面が変化する微かな兆候を読み取ることもできる。
 「あたしが間違っていた」と己の非を認め、死んだレスラーの「生き方」を「死に方」と断ずる火渡は、自分の孤高の美学が死の美学に他ならない現実に打ちのめされている。火渡が「皆」というとき、それは近田が踵を返したプロレス界から近田を排除する断固たる意志の表明であると同時に、孤高の「死に方」から絆の「生き方」へと舵を切る彼女の変節をも寡黙に物語っているのではないか。
 桐野は、神取に取材することなく、試合観戦による外形の構築を通じた内面の想像/創造で火渡を描写したという。最強に手が届く可能性を秘めたものは孤高で、どこか死に場所を探しているふしがある。カレリンとやった前田しかり。天龍とガチンコをやった神取しかり。リング禍に当面した火渡の内面描写は、レスラーの真実ではないかもしれないが、とてもリアルだと思う。
 桐野の物語は、読んだ限りではいつも奥行きに欠け、非立体的2次元にとどまる一方で、2次元についた折り目や傷を丁寧に扱う。今回も火渡を単に孤高の人と片付けるのではなく、その平面についた傷を想像し、その傷の下に潜むもうひとつの平面を創造する。立体的ではないが、平面に平面を重ねることで、桐野は物語を劇化しているということだろうか。
 フェミニズムの興隆と女子プロレスブームをこのテクストに短絡し、「女子プロレス界最強の男」火渡=神取という「ジェンダー」を神話化する誘惑に負けなかった桐野は、えらいと思う。書きすぎた。