本格ミステリー館

本格ミステリー館 (角川文庫)

本格ミステリー館 (角川文庫)

 本格ミステリーと本格推理の定義をめぐって島田と綾辻が対立。先達の残したコード(「器」)を踏襲するのではなく、もっと未知の領域を開拓しようよ、という島田の提案に同意しつつも、論理的解決がもたらす意外性よりも幻想的謎のそれを重視する島田のミステリー観に激しく噛み付く綾辻、という構図。後半は穏やかな昔話に終始する。
 笠井潔による薀蓄を総動員した解説、あるいは自説はいつものように壮観ではあるが、ここに限っては的を外しているような気がしてならない。西欧の思想史にまで踏み入って、大量死/大量生や科学/詩といった構図を見出すことに、批評史的意義はあるとしても。
 「人間が書けていない」という老害による新人批判、人間を描きすぎることの弊害を認識する島田、そしてミステリーの理論化へと舵をとる島田。これらはおそらく論理的トリックを先鋭化させる一方で、人間を描くことに執着し続けてきた島田ならではの問題設定であり、そして同時に人間が大きく変わっていく時代に対する危機意識の顕われとして解釈できる。だからこそ、島田はとらえどころのない人間、そしてそれを描かなければならない自分をシステマティックなミステリーの理論で把握しようと努めたのではないか。しかしながら、四象限の平面上に歴代の名作を配置するという島田の試みは、あまりに理論から遠く隔たり、人間的に過ぎた。作品がどの位置にくるかというのは、所詮、島田の印象、匙加減ひとつに見える。社会学を大学院で研究していた経歴をもつ綾辻にはそれが杜撰に映り、いいようのない「もどかしさ」を生んだ。
 擬似構造主義的図式化であっても自分のミステリー史における立ち位置を把握しておきたい島田と、その必要性を感じない綾辻。その違いは、創作に対する両者の姿勢の相違以上に、年輪と世代の差なのではないかと思う。自分の人間観と移りゆく現実の人間群像とのずれを痛感する島田と、まだそれらの間に大きなずれが生じていない綾辻
 後年、綾辻は深刻なスランプに陥る。綾辻もまた、歳を重ねるにつれ、時代、人間とのギャップを加速度的に深めていったということだろうか。逆説的ではあるが、綾辻のように、時代の趨勢や生の人間とは関係のない論理のパズルにこだわる作家の方が、社会派やミステリー風味の大衆小説をものする作家たちよりもはるかに、人間の移ろいとの対峙を要求されているのかもしれない。論理や推理のために削ぎ落とさなければならないもの、目に入るのに見ないふりをしなければならないものほど、きっと本棚の裏の綿埃のように徐々に積もり積もって、明晰な視野を曇らせていく。
 何を書くのか決めないまま適当に書き綴っているので関係あるかどうかわからないが、ものを拾い集めるのは自分の構築で、拾い集めたものを捨てるのが決断、と桐野夏生*1はいう。時にはなにかを拾い集めに外へ出ないと、いずれ捨てるものがなくなってしまう。裏を返せば、「私」を形作っているのは、「私」が拾ってきたもの以外にないということ。全て捨てても「私らしさ」が残る、というのは幻想だ、ということ。そして何かを捨てないと何も決断できないということ。
 私の場合、何も捨てたくない、というのが問題だ。根っからの貧乏性なんだろう。

*1:『メタボラ』