クラインの壺

 落ち葉拾い、大掃除、火災警報器の設置など。ひさしぶりに竹箒を使ったら腰をやられて往生する。
 義兄の仕事の都合に合わせて年末に嫁の実家に帰省、年越しは我が家で迎えることになりそうだ。

クラインの壷 (新潮文庫)

クラインの壷 (新潮文庫)

 ミステリ界の異色ユニット岡嶋二人、最後の作品。ブロンソン・ハラテツオやゆでたまごみたいなものだが、小説の場合、いったいどこで線引きしているのだろう。それこそクラインの壺じゃないのか。
 ドラクエ3が出たころ、20年前の虚実皮膜ものなので、ポストマトリックス時代からみると陳腐に映る。網膜に虚像を見せたり、全身に大掛かりな装置で錯覚を与えるよりも、脳に直接刺激を加えるというほうが今となっては圧倒的にリアル。
 虚実の境界が曖昧、ということよりも、虚実をわけることができるという想定自体が近代的で、ブーアスティン的で、いまやそういう対象との間に距離を作ったり、境界を生み出したりする終止符、ピリオドのようなものはとっくに失効しているのではないか、と思う。虚実が分けられない云々かんぬんではなくて、現代は虚実を分けるという発想自体が失効した時代なのかもしれない。なのかもしれないじゃなくて、そりゃそうだ。
 「アイロニカルな没入」なんていうのは、まさにピリオドなき持続の表現に映る。対象との間にスペースを創る行為がスペースを埋める行為と地続きになってしまうような状況を批評はただなぞっているだけ。たんに共犯関係を強化するためだけに奉仕する批評、あるいは批評の商業化といいかえてもいいかもしれないけど、そういうのってメタレベルに出たと思ったら単にとり込まれているだけだったというようなメタレベルの無間回廊を建て増しするだけなんじゃないかと思う。メタレベルの無限回廊の中で繰り広げられる言語遊戯もまあおもしろくはあるのだけど。
 大澤・北田は「60年代的総括」を「総括」する批評を批判していたがそれはどうか。総括の追究、徹底の果てにしかメタレベルの地平は生まれないのではないか。メタレベルの地平を事後的に確保した無菌状態で全共闘的メンタリティの破産を宣告するという行為それ自体が、60年代に対してアイロニカルな距離を保ちつつ現代のオタク的メンタリティに没入するというような、迂回したアイロニカルな没入の表現になっているのではないか。なんにせよ全共闘への没入の果てにアイロニーなりピリオドは見出されるのが健全というか、それこそが不可能性の時代たる現代に対する健全な距離を保つ方法なんじゃないかと思う。チョイ悪先生、あんたのほうが正しい。たぶん。