ヤマアラシ

 風邪も治りかけ。普段は食わないバナナを貪る。絵になる。

定本納棺夫日記

定本納棺夫日記

 なにかと話題のこの本。
 いわゆる「納棺夫」と自称する著者が、自身の体験を内省していく本。しかし、経験と呼べる部分はほんの僅かで、大部分が形而上学的・宗教的考察によって占められている。
 18年前、富山の片田舎という時代と環境に鑑みれば、「納棺夫」という名の遺体処理業の社会的地位のほどは容易に推し量れる。事実、著者の考察の大部分は、親戚、家族、地域から白眼視される自分の仕事を肯定する行為をいかにして肯定するか、という自己肯定の自己肯定による終わりなき肯定に割かれている。
 法医学関連の書籍を渉猟する過程で、葬祭業者の手記に類するものもいくらか読んだが、自己弁護・自己肯定に終始するものがほとんどだった。ほぼ二世代前の本書と比較すると、未だ死体に関わる仕事に対する世間の評価に、隔世と呼べるほどの変化が起こっていないことがわかる。
 社会的認知度の低いマイノリティに属する人たちが採る戦略のひとつとして、ロマン化は即効性が高い。黙殺されてきた自分に社会の耳目を集め、同時に自己肯定感を得られる。ただし、そうしたロマンを一度打ち立ててしまうと、地に足のついた常識的理解を得ることは難しくなる。幻想は生きるためには必要だが、それが社会の次元でそのまま通用することはほとんどない。女性の神秘化をある種の鏖殺として批判したベティ・フリーダンにも一理ある。
 だが、『死体の経済学』のように社会化された「納棺夫」へと一気に振れるのは危険だ、とも思う。圧倒的面白さを認めるとしても、そこでは「納棺夫」たちの幻想の一切が棄却されてしまう。
 吹雪に震えるヤマアラシはお互いを暖めあう必要がある。しかし、近づきすぎるとお互いを傷つけあってしまう。離れすぎると寒くて凍えてしまう。傷つきすぎず暖めあえる適切な距離をいかにして見つけるか。幻想を打ち立てる『納棺夫日記』とその一切を社会化してしまう『死体の経済学』のような本との関係にも、ショーペンハウエルの寓話は敷衍できるだろう。適切な距離がとれたとき、「納棺夫」にとって必要な「社会」は生起する。たぶん。
死体の経済学 (小学館101新書 17)

死体の経済学 (小学館101新書 17)

 
 同じような意味において、『マリーシア』と『4-2-3-1』も二匹のヤマアラシなのかもしれない。亀田とKOは決してセットではないが、精神論と戦術論は相容れなくともセットである。精神が戦術を思考し、実践するのだから。

マリーシア (光文社新書)

マリーシア (光文社新書)