快楽主義
探偵小説と家具の配置について書かれた箇所を求めてベンヤミン本をぱらぱらめくっていたら、「作品は、構想のデスマスクである」という警句に目が留まる。構想がそのまま作品として結実するわけではない、というのは当たり前としても、なんとも含蓄ある警句だ。
作品が不出来だからといって弔っても遅い。弔いは構想の段階でなされるべきだ。なぜなら構想こそが死体なのだから。他方、作品は死者そのものではなく、死者の思い出、デスマスクなのだ。
というわけで、すっかり感服した私は、あらゆる論文はそれを頭に思い描いた時点で死んでいるのだよ、と原稿の締め切りに追われる嫁に慰労のつもりでいってみた。なぜか怒られた。
- 作者: 澁澤龍彦
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1996/02/01
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幸福と快楽は違う。幸福というのは、苦痛を回避した結果得られる消極的なもので、具体的に思い描くことが難しい持続的な安寧の状態を指す。対して快楽のほうは、積極的に刹那的に消費される具体的な欲望と結びつく。受身とセキュリティ第一の幸福なんてなーんも楽しくない。メリハリ利いた快楽の方が人生を豊かにするじゃんか、というわけである。
たかじんの名言のひとつに「若いうちに虚しさ知らんでどうすんねん」というのがあるが、快楽というのは味わったあとが虚しい。だから人は成長すると、より平坦で安定した幸福の方を求めるようになる。まあそれは、若いうちに快楽を貪り、祭りのあとの虚しさを学習するからだろう。最近は草食系男子などという軟弱な輩が跋扈しているらしい。話を聞くと、彼らは若いうちから幸福ばかり追求しているようにみえる。やつらはどこで虚しさを知るつもりなのだろう。
私の友人に、飲み会のあとの勢いで他人の車のボンネットに乗っかってボコボコにしたやつがいた。警察に説教され、春休み中を費やして修理代を弁償した。快楽とはそういうものであり、祭りのあとの虚しさとはそういうものである。いやま、それは極端だった。にしても、平坦な道よりもアップダウンが少しはあった方がおもしろいじゃないか。なにが草食系やねん。
ちなみに、私の見る限り、件の友人は今でもあんまり丸くなってはいない。しかし、私もすっかり角が取れたとはいえ、お呼びとあらばいつでも鉄砲玉のように尖がって戦地に赴く覚悟はある。けれど、快楽のあとの虚しさと二日酔いはほんとに強烈だから。特に彼らの場合。草食系に転向しようかしら。