フィーゴ

 そういえば昨日、この辺で最大の書店に寄ってみた。入り口からほどない目立つ場所に書棚が屹立、村上春樹の関連本が収められていた。しかし、小説やエッセイ、インタヴュー集はおろか、研究書まで収められたその書棚には、ご本尊が欠けていた。最上段は空っぽ。一方、平積みになった春樹本の新鮮なてかりは、それらが埃を被る間もなく買い取られていることを物語っている。空前の春樹フィーバーにほだされた春樹入門者たちは、どうやら辛抱たまらん状態に追い込まれているようだ。しかし、こんなに初動の激しい小説なんて、かつてあっただろうか。

          • -

 
 セリエA、最終節、インテルアタランタ戦。
 派手な撃ち合いになったこのゲーム。しかしスペクタクルは7つのゴールの間に用意されていた。前半42分、インテル背番号7の交代を告げるアナウンスが谺する。
 ポルトガル代表、そしてスポルティングバルサレアル・マドリーのサイドに数々の嘆息と歓心をもたらしたバンディエラルイス・フィーゴが去る。ジョゼッペ・メアッツァの観客は老若男女問わず総立ちで、両手を喧しく叩き合わせながら賛辞と惜別の挽歌を送る。両軍のベンチに控える選手たちもピッチの脇に並び、稀代のファンタジスタの嘘のような最期を見届ける。完全に時間を止めたピッチ上では、抱擁がただ繰り返される。キャプテンマークを外したフィーゴは、皺の増えた破顔をくしゃくしゃにしている。湿った感傷は微塵もない。
 ほどなくしてダークスーツに身を固めた男がピッチに入っていく。衆目の独り占めは許さない、とばかりに。この日はベンチ入りを禁じられていた "special one"、ジョゼ・モウリーニョの登場だ。一直線に目的地にたどり着くと、フィーゴに声をかける。エウゼビオ以来、史上二人目のポルトガルバロンドール受賞者を力強く抱擁する。執拗に背中を叩く。そうやって同郷の同志に大きなアクションで別れを告げる。おそらく、3階席から見下ろしていても、あれはモウリーニョだ、と言い当てることができる。どこから見てもモウリーニョにしか見えない。よくも悪くも画になる。
 フィーゴもそういう男だった。ボールが足元にないときはピッチの保護色に溶けている。しかし、ボールが彼の足元で輾転反側を始めると、背中を向けていようが全体を俯瞰する「引き」の映像だろうが、彼のことをフィーゴと呼ばざるを得ない。近すぎる間合い、小刻みに変動するリズム、柳のような構え、数オクターブを一息で跨ぎ越す切り返し。ボールを操るフィーゴの輪郭、そしてボールとともに動き回るその輪郭がピッチ上に描く軌跡は、「フィーゴ」としか形容しようがない。画になる男だった。
 モウリーニョから解放されると、フィーゴはゆったりとした足取りでタッチラインを跨ぎ越し、ベンチの前に並んだ選手たちと抱擁の続きを楽しむ。ゴール裏の観客席に控えめな挨拶をし、ベンチに引っ込むと、止まっていた時間は動き始める。フィーゴのいないピッチ上で、フィーゴ抜きのカルチョが始まった。