恐怖の誕生パーティ

 昨日は右上智歯の抜歯、今日は消毒で通院。下の智歯二本はもう一度腫れたら全身麻酔で抜きましょう、という結論に。奥の奥まで念入りに磨こう。
 帰りに「交通公園」なるところに寄る。入り口付近に立つ白亜の平屋には常駐している職員の顔がちらほら見える。特に呼び止められそうな兆しもみえないので、公園の感覚で気ままに進む。いくつかの遊具や木陰、ベンチが右手に並ぶ。確かに公園だ。だが、それは公園のなかに作られた擬似公園に過ぎなかった。
 周りには「交通」が走っている。横断歩道を備えた道路、無人の道路に秩序を与える信号機、時折思い出したように電子音を発し始める擬似踏み切り、掣肘を加えんと憎たらしくあたりを見張る交通標識。敷地内は無駄なく埋まっている。小さなクランクまである抜かりのなさに、自動車学校に再入校したかのような既視感さえ覚える。
 トイレの向こうには無数の自転車が整然と並ぶ。ここは、小学生たちに交通ルールとマナーを仕込む、自転車運転の教習所のようなところなのだろう。だが「生徒」は、昼下がりの太陽に手をかざし、涼を求めてベビーカーを押す二組の母子だけだった。自転車の出番はない。年に何度かは小学校の年中行事の一環で賑わうのだろう。だが、特殊法人の常、なくても誰も困らない。
 公園のなかにつくられた公園のベンチに座り、蟻と戦いながら『恐怖の誕生パーティ』を読んだ。
 コンサルタント会社の社長、マーティは、財も愛も惜しみなく妻・サマンサひとりに注ぐ。仲睦まじい夫婦は、周囲の羨望の的だ。だが、マーティ四十歳を祝う誕生パーティが近づくにつれ、サマンサは人知れず疑念を深めていく。
 パーティのサプライズの一環として、サマンサはマーティに所縁のある恩人や友人を秘密裏に招く計画を立てる。しかし、マーティの母校にも、郷里にも、彼が存在した痕跡は認められない。サマンサは、自分の夫が誰なのか、分からなくなっていく。
 見慣れたものや人が突如として不気味さを帯びる、という設定は、たぶん、ホラーの常套だと思う。
 フロイトの「不気味なもの」という概念は、語源的に「慣れ親しんだもの」と「隠されたもの」という相反する圏域が重なってできている。不気味に感じるのは、それが全くの未知のものだからではなく、知っているはずなのに分からない、というような不透明な宙吊り状態を惹起する何かだからだ。
 未経験の出来事に対しても人はうろたえるが、初体験、という免罪符でその衝撃はいくらか軽減できる。しかし、樹から落ちる猿や水に溺れて藁を掴む水泳のエキスパートに逃げ場はない。全然知らない土地に実験的に家を建てすぐさま倒壊するよりも、長い年月をかけて住まってきたわが家が突如傾き始めることの方がはるかにショッキングだろう。つまり、本当の怖さがやってくるのは、外に広がる未知からではなく、長年安心貯金を積み立ててきた既知の風景の内側から、ということになろうか。だからなのかどうなのか、名作ホラーはいつも見慣れたわが家の中を舞台にしているような気がする。
 結末のどんでん返しも含めて、『恐怖の誕生パーティ』はホラー小説の傑作だと思う。
 来週から女王様による虫歯の治療が始まる。やっぱ未知もこわ。
 

恐怖の誕生パーティ (新潮文庫)

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