シリコンバレーから将棋を観る

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代

 野球やサッカーのように、「観て楽しむ」。そんな将棋のオルタナティヴを提案するシリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代は新鮮だった。もちろん、身体が激しく躍動し、ボールがあちこちに飛び交うようなわかりやすいスペクタクルは将棋にはないけれど、見方次第で将棋も知のスペクタクルを帯びた競技に変わる、という梅田望夫の着手は、私の凡庸な第一感でも筋がいいように映った。そう、将棋は観てもおもしろいのだ。
 もちろん、将棋を観ようと思っても敷居は高い。やっぱり将棋は難しい。野球やサッカーのように、おもしろく語ってくれる解説者がいたら、将棋はもっと観やすくなるだろう。それが物語だったら、なおのことおもしろい。そういう真摯な思いからだろう、梅田は将棋を「物語」にする。
 羽生によってもたらされた棋界の革命と現代将棋のあらましを解説したあと、梅田が実際に立ち会ったタイトル戦の即興語り(公式ブログや棋戦のサイトから転載)と後日譚が続く。それは、私のような下手糞にも将棋をおもしろく観させてくれるひとつの「物語」だ。
 もちろん、「物語」は、棋界の「真実」とは違う。事実、梅田は竜王戦第六局において現れた急戦矢倉という戦型に、1997年から3年半続いた羽生善治の連載、「変わりゆく現代将棋」の残像を幻視するが、当事者の羽生も渡辺明も当然10年以上昔の先行研究を意識してはいない。だが、梅田にとって、それは僥倖以外のなにものでもなかった。幾千幾万の棋譜が積み重なった将棋の「歴史」は、こうした僥倖に突き動かされた書き手によって「物語」へと変わり、将棋を観ている観戦者の心に届く。 
 第7章、羽生と梅田の対談にはこうある。

 梅田 将棋というものが進化していくプロセスというのが、すごく楽しみなんですよね。先程から話題に上っている「物語」としての将棋の楽しみ方、それも一局一局の物語とはまた別にある、将棋の進化についての物語です。複数の物語が折り重なり、重層的に奏でられていくことの楽しさが、そこには間違いなく存在している。

 羽生 あああ〜! それで、あの、指しているとですね、同じ局面でも位置づけが違う、というときもあるんですよ。つまり、過去にこの局面は何十局もありましたと言うけれど、十年前に同じ局面が出たときの背景と、今日いま指されている将棋の背景は、まったく別なんだ、別なんだけど、たまたま同じ局面なんだ、という。

 梅田 十年の間の経験の蓄積とか、紆余曲折とか、発見とか、いろいろなことがありますよね。それらを局面に入れ込めるか、入れ込めないかの違いが生まれる。

 羽生 そうです、そしてこれは……指しているプロの人でも全部はわからないというのが……そういうことが、多分、あります。

 梅田 わからなくても、観るときの手がかりになればいいですね。

 羽生 そうですね、すごくそう思いますね。

 
 盤面を眺め、形勢のよしあしを直感的に*1判断する力のことを「大局観」という。棋士は盤面の上で互いの見えない大局観を戦わせる。だが、私のように凡庸な「大局観」しか持たない外から観る観戦者にとって、棋士たちの見えない戦いは、ひとつの盤面に並ぶ40個の駒の意匠にしか映らない。何が起こっているのかすらわからないこともある。そういうときは、解説が助けになる。だが、梅田が採るのは物語だ。
 梅田は、現在の盤面と過去の盤面の間に訪れる僥倖、あるいは盤面と棋士を含むその外の世界との間に生じる暗合を感じとる。「大局感」とでもいうべき感受性に裏打ちされた言葉の力で、「観る将棋」を物語化していく。*2
 第一章で物語られているように、村社会の閉塞の向こう側を見通す羽生を嚆矢として、棋界では知の共有が進んだ。しかし、オープンになっていくのは、手の内を曝け出す棋士の姿勢や戦術に関する知識だけではない。将棋というひとつのゲームのあり方、それに対する関わり方も外へ外へ広がり、多様化していくだろう。そのひとつの選択肢が「観る」だ。
 だが、「読む」でも「詠む」でもなく、「観る」なのだから、それを支える「物語」において、書き言葉による臨場感、ライブ感の演出はとりわけ難しい。事前の情報収集が、盤面の上で展開する即興の対話の前に役に立たないこともあるだろう。
 梅田はそうした困難を承知で、これまで暗数に留まってきた「観る将棋」ファンを掘り起こす一手を打った。あとはこの一手、そしてこれから重ねられていく幾多の手を、定跡へと育てていかなければならない。それは、物語の質の追求以上に、物語の多様化にかかっている、と私は思う。「炭鉱のカナリア」を自任する梅田に続く、炭鉱夫たちの登場を俟ちたい。

*1:もちろん、血と涙の研鑽と豊富な経験に裏打ちされている。

*2:「大局感」をうんぬんする以前に、梅田自身の棋力、大局観が一定以上のレベルにあるのはいうまでもない。