いつも渇いて、いつも空腹

死をポケットに入れて (河出文庫)

死をポケットに入れて (河出文庫)

書くというのはわたしが飛ぶとき。書くというのは情熱を燃やすとき。書くというのはわたしが左のポケットから死を取り出し、そいつを壁にぶつけて、跳ね返ってくるのを受けとめるとき。

作家は年をとるほどに、よりよいものを書かなければならない。より多くを見て、よりいろんなことを耐え忍び、より多くのものを失い、より死に近づいているのだから。死に近づくというのは最大の強みとなる。そして新しいページはいつも開かれている。真っ白でなにも書きこまれていない、縦二十二センチ、横二十八センチのページが。ギャンブルは続く。すると決まってほかの連中が言ったことを一言、二言、思い出すことになる。[中略] わたしは決してひとりぼっちではないのだ。いちばんいいのは、ひとりぼっちだったとしても、まったくのひとりぼっちではないということだ。

 

新しい一行はそのどれもが始まりであって、その前に書かれたどの行ともまったく関係がない。毎回新たに始めるのだ。それに、もちろん、それがやたらと神聖な行為だというわけでもない。配管工事がないよりも、文筆業がないほうが、この世はずっと暮らしやすいものになる。それに実際この世界には、そのどちらともほとんど縁がなくてすんでいる地域がある。もちろんわたしは配管工事なしで生きるほうがいいが、それはわたしが病んでいるからだ。


 生きるのって難しいらしい。でもオレにとっては、生き延びるほうが遥かに難しい。たくさんの個の関係のなかで生きる<個人>としてのオレもそれなりに大変なんだろうけど、ひとつしかない、無関係で孤独な<存在>としてのオレが生き延びるほうがずっと難しい。だから毒を吐く。そして毒を噛む。
 そんなことしてるうちにデリダがよりよくわかるようになってきた。ほかにブランショユイスマンスベンヤミンバタイユ前田日明阿佐田哲也ドゥルーズ、そしてブコウスキー。まだまだいるけど思い出せない。まあいいや。所詮著者名や書名なんてただの教養。教養なんて暇つぶしの技術だ、って誰かが言ってた。そういえばオレ、人生で勉強なんて半年しかしたことがなかった。ただ生き延びるためだけに壁だらけの場所で本を臨死体験する。だから生きるためにはわかる必要もないことがわかるようになる。自分が生きるためにあいつらをちょんぎって<理論>としてこき使おうとは思えない。生き延びるためにあいつらに噛みつく。生きるためにはこんなこと、無意味。
 ああそもそもこれってダサい。超ダサい。おまけに暑苦しい。漬物石のような本の山。死番虫みたいなオレ。誰にも自慢できないしそもそもする必要もない。生きるためじゃなくて、全部生き延びるためだから。そうやってヒ素のような毒を噛み続ける。緩慢な死。わたしとタバコと薬と、ではとてもとても童謡は書けないね。だから死にゆく誰かの隣人でいよう。本を読むってそういうこと。書くってそういうこと。ああ、ブランショとはごめんだけど。
 生きるためには群れるのもいいかもしれない。でも生き延びるための毒にしては群れは甘すぎるみたい。分かち合うなら、一定の電圧で安定して気持ちよくなれる電流を介した世間話じゃない。どうせならユートピアみたいに現れた瞬間から消えゆくことを思ってしまう、そんな現在なのにノスタルジックで切なくて儚い時と場所を分かち合いたい。見当違いのところに投げてはど真ん中を取り損なうへたくそなキャッチボールで感じる孤独を分かち合いたい。ああ、ブランショとはごめんだけど。
 誰かに勝とうとは思わない。嫉妬したことがないから。嫉妬という感情って何なんだろう、っていつも思う。出世とか地位とか名誉とかもわかんない。生きている意味とか自分探しもわからない。たぶんそんなもの、ここにいるオレとは関係ないから。関係、っていう概念すらオレとは関係ないから。
 ただ足りない、と感じる。いつも何かが足りない。だから毒を噛む。あいつらに噛みつく。そしてもっと飢える。また噛みつく。飢えていく。アイム・ハングリー。ラーメン食ったばかりなのに?
 言葉を紡ぐのは言葉にできない瞬間に出会うため。紡げば紡ぐほど綻びに気づくようになり、隙間から夜が覗くようになる。
 たとえば、転んで泣き喚く弟を抱きかかえる姉。「おねえちゃんだから」。夜が覗いている。この子たちには関係ない夜が。オレにその夜を言葉にすることはできない。ただかたちだけ。弟を抱きかかえる姉。ただかたちだけ。デリダが見つけた涙のような、ただのかたち。
 子供たちと写真に収まる。すると、「今度は私が撮るから」と姉がいう。夜の住人たちと弟、5歳の姉が撮る写真に収まる。遺伝。イプセンとかフォークナーみたいな負の遺伝じゃなくて、ね。ああ、生きるのってたぶん子供が一番上手。オレだってうまかった。たくさんのぶつかってくる肩にすり減って、だんだん生き延びるのに青息吐息なやつが増えていく。オレみたいに。生きることだけを考える。あるいは生きていることさえ考えない。それって幸せなんじゃないかな。この子たちにはそういう幸せを生きてほしい。ブランショなんか読むもんじゃない。
 帰りの電車、世間では偶然って呼ばれているやつと出会う。喋りすぎた。太りすぎた。でもまあいい。うどんを週三で食べる偶然なんて、そうそう出会えない。
 帰りの新幹線、サングラスに初めて感謝する。涙ってなんで出るんだろう。ゴミが入ったから? 生理的な因果関係に落とし込みたい。理由なんていつも後づけ。なんでプロレスが好きなのか、なんで競馬が好きなのか。そんなもんわからん。感情は喜怒哀楽に腑分けもできない。涙だって言葉にできない。なんでだろう。だって涙は言葉の代わりに出るものだから。言葉はそのために犠牲になる。サングラスの夜の下。