病みの奥

 月例の通院。
 急坂を登り切った先に病院はある。チョモランマの頭のような涯てしなさをこの坂に重ねていたあの頃の感覚は薄れても、依然としてバックネット越えほどの抵抗は覚える。大ファールを今日も無事に打つ。おい、そろそろ前に飛ばないか。
 血液検査の結果。3つほどひっかかる。代謝がね・・・。5年、10年先が思いやられる。ジョージアはやめたんだけど。うまかっちゃんのスープを飲むのはもうやめよ。
 山陰行の報告などなどさわり程度の近況報告。で、処方。週刊誌をぱらぱら。島田紳介、まだ叩かれているのか。喜び組ねえ。
 ほっといてくれるいい先生。墓まで持っていきたいことってあるよね、ってこの先生とは妙に気が合うこともあった。でも、いつも思う。オレよりこの先生のほうが病んでいるんじゃないか。異端審問官が最も異端だというやつ。肉屋の娘は太っているというやつ。首が回らないのは借金のせいだけではないというやつ。あれ?
 
 帰りにいつも居酒屋で、定食、それからビール。次は4つぐらいひっかかるかも、ははん、という滑らかな危惧をクリーミーな泡と共に流し込む。
 大将のコミュニケーション能力の高さに驚く。滋賀とギリシャを結びつけて、隣のサラリーマンたちとわれわれとの間で大将の話がきれいにブリッジする。本当にコミュニケーションが上手な人って、こういう芸当が嫌みなくさらりとできてしまう。なんにもひけらかさないし、誰にも媚びない。上手だなあ、商売も生き方も。
 
 で、今日は大将が「peeping life」なるものを教えてくれた。たくさんDVDで出ているらしい。カップルが店内で喧嘩し始めたときに流すのだという。狭い店なので口げんかが始まると雰囲気が壊れる。かといってそんなに上手に他人の喧嘩に大岡裁きができるわけでもない。というわけで、これを流すと和やかな雰囲気に戻るのだという。曰く、「だいたい痴話喧嘩は男のほうが悪いのだけど、お支払いは6割男性の方だから。私は男性の味方です」とのことで。なるほど。いつか使ってみよう。
 
 この二年ほど、本が読めるようになったことが嬉しくて(今でもときどき読めないけど)、古典の大作をよく読んだ。もちろん教養主義は毛嫌いしているわたしなので、読み方はひねくれている。『神曲』、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』、『デカメロン』、『パサージュ論』、『ドイツ悲劇の根源』、『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』、『ミメーシス』、『中世の秋』などなど。
 『神曲』は数学的な厳密さをもって組み立てられた立派な建築のようではあるけども、中身はほぼ恨みつらみ、週刊誌読んでるみたいな感覚(特に地獄篇)。今では世界文学とかなんとかいわれているけども、たぶん当時の人たちはげらげら笑いながら読んだんじゃなかろうか。原文で読んだら三行詩の韻律にうっとりすることもあるんだろうけども。
 『ガルガンチュア』は『痴愚神礼賛』などなどのメニッペアつながりで読んだ。くだらない。くだらなくておもしろい。ときどきうんざりする。でも読んじゃう。なにでケツ拭くのが一番気持ちいいか、とかね。なのに、バフチンラブレー論はなんでこんなに真面目でおもしろくないのだろう(少しだけおもしろいところもあるけどね、あれも)。『ガリバー』とか『トリストラム』とか、いろいろ影響与えているよね、いい歳した大人たちに。
 『デカメロン』は『神曲』の形式を借りて書かれた散文。こういうかっちりした構造と「バベルの図書館」などなどをかき混ぜて、該博と才能のスパイスを振りかけると『薔薇の名前』ができあがる。冒頭のペストの描写は真に迫っていて印象に残る。おもしろさでいうと、印象にはあんまり残らない。ひとつぐらいかな、覚えている話。寝物語にはとてもいい。
 でいろいろ読んで、古典小説のチャンピオンはやっぱり

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

 ポストモダンというタームを忘却してからずいぶん経つ(だってほとんどモダンと一緒だから。「ポストモダニズムブーム」ならいいとは思うけど)。でも、そっちのほうがよくわかる向きにはポストモダン。私の場合、むしろ古典的な『ホモ・ルーデンス』の文脈のほうがしっくりくる。遊びです。あらゆる読み書きがそうであるように。ただし、真剣な遊び。遊びは真剣にやらないとつまらないもん。