ネクローシス

1985年のクラッシュ・ギャルズ

1985年のクラッシュ・ギャルズ

 『1976年のアントニオ猪木』の著者による女子プロレス一代記。
 読み進めるにつれ、ページを繰る手が速くなり、止まらなくなる。筆舌に尽くしがたい恍惚。
 プロレスはイロモノだし、女子プロレスはさらにイロモノ。モノトーンの人生よりずっと生き生きしているし、そのぶんずっと死に近い。『レスラー』もそうだったけど、すべては無為。プロレスラーっていうのは職業じゃなくてひとつの完結した生き方。外野にいちゃつまらない。リングと同じ四角のブラウン管にかじりついて、同じように呼吸してみないとつまらない。全部がリングというひとつの生き方(あるいは死にかた)を体験できる。この本を読んで、そんな興奮を追体験した。滅びゆく者たちの美。
 あとは言語。プロレスって隠語を超えて、記号の交換なのだなあ、と改めて思う。そして、記号は継承されていく。けれども、その過程でずれる。そのずれが世代間闘争やスタイルの乱立を呼ぶ。新しい記号が生まれる。そういう記号のあいだの軋轢が緊張感をつくっている。バルトが論じるわけだ。
 そういや月刊マガジンの末尾のほうでひっそり連載してた『プロレスファン列伝』なんてものもあった。あれは大変馬鹿で実によかった。