狂ったポーターたちのハカリゴト

ポータブル文学小史

ポータブル文学小史

 

地獄の時間としての「現代」(モデルネ)。この地獄の懲罰とは、いつでもこの一帯に存在している最新のことがらであり続けねばならないということだ。「繰り返し同じこと」が生じるということが問題なのではないし、ましてここで永遠回帰が問題なわけでもない。むしろ肝心なのは、まさしく最新のものにおいて世界の様相がけっして変貌しないということであり、この最新のものが隅々にいたるまでつねに同一のものであり続けるということだ。――これこそが地獄の永遠を形づくっている。「現代」をありありと示す特徴の全体を規定するということは、この地獄を描き出すことにほかならないだろう。


どのエポックもつねに自分自身を、規範から外れているという意味で「現代的(モダン)」と感じていたし、自分の時代が深淵のまん前に立っていると思っていた。決定的な危機のただなかにいるのだ、という絶望的なまでに澄んだ意識が、人類においては常態なのだ。あらゆる時代が、その時代にとって避けようもなく新時代(ノイツアイテイッヒ)に見える。だが、「現代」(モダン)が異なるのは、同一の万華鏡の鏡面の図柄がそれぞれ異なっているのとちょうど同じ意味においてなのだ。―――ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』

 デュシャン、ピカビア、ジャック・リゴー、ポール・モーラン、アレイスター・クローリーパウル・クレージョージア・オキーフ・・・。
 わたしにはあまり馴染みのない作家や芸術家も含まれているが、いわゆる<モダニスト*1と呼ばれる人たちが陸続と登場しては奇妙な冒険活劇を繰り広げる、本書はそんな小品だ。合間合間には、適宜様々なテクストが引用される。登場人物ひとりひとり、あるいは出来事と出来事のあいだに、実線で結べるほどの歴史的関係はない。だから、引用がひとびとや出来事を継ぎ接ぎし、引用が当意即妙の会話を交わし、引用がすかすかの、あるいは存在しない間柄を昵懇の仲へと偽装する。「友達百人できるかな♪」の学校教育的幻想を、大人の博覧強記を総動員して叶えてみせる秘密結社「シャンディ」。こんなものをでっちあげるバルセロナの奇才、ビラ=マタスの陰謀(plot)はぶっとんでいる。
 スターンの小説に由来する秘密結社「シャンディ」は、以下の三つの条件を「通底器」、あるいは集合的無意識とすることによって成立している。
 第一にトランクに収めることができるほどに作品が軽量であること。
 第二に高度な狂気を持ちあわせていること。
 そして第三に独身者の機械として機能すること。
 これら三条件を踏み台にテクストを見渡せば、デュシャンの箱や「独身者の機械」、ベンヤミンの放浪癖やミニチュア愛玩癖、カフカの幼児性や「オドラデク」、ニーチェ土星的狂気と思索が、ぐるり読者を囲っていることに気づくだろう。あるいは少々連想のトランポリンに遊ぶ自由が許されるなら、ボードレールメルヴィル、ジャリ、ユイスマンス、ワイルドなどの反影さえ遠くに垣間見ることができるかもしれない*2
 「シャンディ」は名簿やイデオロギー、党派性をもつかたちある組織ではない。それは、モダンに息を詰まらせているたくさんの人々の「嘆息」のようなもの。*3「長い長い19世紀」を呪うバロック通奏低音、終わらない戦争、ヴァレリーに膨大な言葉を費やさしめた「精神の危機」、『ミメーシス』に伏流するヨーロッパへの郷愁、あるいは庶民の倦怠、退屈、欠伸、目脂、溜息。細胞分裂を続けるメランコリーたちのめんどくさい通分を経て得られる暫定的な分母こそ、「シャンディ」という病の症候*4だろう。ビラ=マタスも患者のひとり。
 モダンの激流の只中でそこに留まる小さな中洲。「シャンディ」は中洲に立つ小さなテントのようなものだ。いずれテントは畳まれるか、強風に煽られ、飛ばされてしまう。けれども、ハカリゴトに終止符は似合わない。せいぜいコンマかコロン、セミコロンが関の山。ハカリゴトはだらだらと続く。意識の流れのように。
 今も排水溝の蓋に、流しの三角コーナーに、プラットフォームの隅に追いやられた灰皿に、小さな溜息は引っかかり続けている。溜息を吐かないためには、スノビズムコジェーヴ)やシニシズムジジェク)、あるいは気概(フクヤマ)がいるのかもしれない。けれども大通りでの処世よりも、小さな隠れ家、アジト、あるいは「秘密基地」を愛する者は、溜息を吐くのでも吐かないのでもなく、それらを見つけて吸い上げればいい。小さな肺でもできる。
 高さも厚みも奥行きも欠いた、限りなく平坦に均されるエクリチュールの道。せめてケルアックのように、車の荷台に載った尻を跳ね上げるぐらいの道の起伏を感じたい。下手くそな踊り場を建て増ししたり、墓穴を掘ったり、破れた書き割りを運んできたりして、小奇麗なエクリチュールを汚したい。ハカリゴトへの意志は、壇上から口角泡飛ばして見え透いた大義や団結を吐く大作家の手垢にまみれた手ではなく、常軌を逸したポーターたちの、小さくとも溜息たちを吸い上げる黒ずんだ肺のなかひとつひとつにある。
 自分の本がないのなら、ときどきは手元にある他人の本で壁をつくって、その小さな踊り場で自分の溜息をぶつけてみるのもいい。ハカリゴトはすでに誰かがどこかで始めているのだから。*5
 
 

 われわれが過去を読むことができるのは、それがすでに死んでしまっているからなのだ。最後のシャンディは、歴史が物理的な事物のうちに物神化されているからこそ読むことができるのだということを知っている。歴史はひとつの世界であり、だからこそ人は本のなかに入っていけるのだ。最後のシャンディは、自分の本は散歩できるもうひとつの空間だと考えている。そんな彼が人から見つめられたときにとる衝動的な行為は、うつむき、片隅を見つめ、顔を伏せてメモ帖をのぞき込む、あるいはもっといいのは自分の本でポータブルな壁を作り、その後ろに隠れることなのだ。

 

*1:わたしは彼らをモダニストとして括ることに躊躇する。それはさまざまな呼び名をもった、広範囲にわたる前衛を、暫定的に総称する以上の意味を持たないように思われるから。ただ、便宜的な観点から彼らを<モダニスト>と呼ぶことにする。

*2:ここにブルトンクルージュを含めてもいいかもしれない。

*3:ブランショの「明かしえぬ共同体」を「シャンディ」に重ねるのもいいだろう。

*4:『トリストラム・シャンディ』にまだ手をつけていないわたしには、これ以上踏み込んだことはまだ言えない。

*5:まったくの蛇足だが、わたしがおもしろいと思うのは:
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 シャンディたちは阿片吸引室へ行くために下へ降りていったが、全員が海の底で自分たちの前に開かれている様々な展望に気づいたわけではない。多くの人にとって、あれは海底にある吸引室への、異国風ではあるが単純な下降でしかなかった。ひとつつけ加えると、彼らはあの下降が実際はポータブル的な感情と完全な形でひとつに結びつく、もしくは結びつきうる本能的な運動であることに気がついていた。また、あの下降が海の底にじっとしていることで、上にある世界でふたたび運動性を回復するためのものであるという意味では、まことに逆説的ではあるが、いかにもシャンディ的な旅行の延長であると言えるだろう。
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 ランボーやデ・ゼッサント、あるいはル・クレジオニーチェ、またはフロイト。連想は無限に働く。