知識人の危機

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

 室の四隅に残った綿埃のように見過ごしても一向に構わない極私的な異物ではあるけども、それでも吐いて、いや掃いてしまうと、「危機」と「crisis」ではなんとなく語感が違うような気がしている。危機は単に危うい状態のことを指しており、crisisのほうは平坦な日常に切り込み線が入ったような印象がある。つまり、危機は一種の難局であり、それをやりすごしたり乗り越えることに比重を置いた言葉であるのに対し、crisisはcrisis以前と以後との間に亀裂が入ってしまって、問題を解決できようができまいが、亀裂そのものは修復不可能な傷跡として残る。さあどうだろう。
 私的な綿埃には目を瞑っていただくとして、(crisisと同義の)危機は歴史上に残る事件や事故、災害、戦争の命名に手を貸してきた。キューバ危機、石油危機、金融危機・・・。それからまた小さな問題を大きく見せるためにも危機は使われる。学力低下、運動不足、メタボ、紙媒体などなど。どれにも危機をくっつければ、それなりの記事をでっちあげることができる。なるほど危機は、<言説>という用語を説明するのに最も適した概念なのかもしれない。
 意味論の観点、それもかなり性善説に寄った観点に立てば、危機にはそれが繰り返されることに対する恐怖、それを繰り返してはならないという念慮が込められていることだろう。しかし、危機の作用は違う。危機という言葉を使うと、危機的な状況は容易に量産することができるし、危機は日常化していく。危機はありふれている。*1目に見える危機でなくてもいい。具体化していない危機でもいい。占いのようなものでも危機は生み出せる。
 かくも便利な「危機の言説」は、批評家や知識人に多用されてきたし、これからも多用されるだろう。*2不安定な時代を背景に、危機は嵩にかかって細胞分裂を繰り返している。
 勝手な想像を膨らませると、危機という概念は王権の退場によって生まれてきたのではないかと思う。ハンナ・アレントの革命論革命について (ちくま学芸文庫)に依れば、フランス革命が初めてrevolutionに体制刷新の意味が加わった瞬間なのだそうだ。revolutionは天体の運行に由来する言葉で、陽が昇って沈んでいくような、栄枯盛衰万物流転のようなもの。だから当時のフランス国王にとって、revolutionは、前任者のやり方がどこかずれてしまったから首を新任者のものとすげかえて元のやり方に戻す、というような消極的な改革でしかなかった。ところがところが、フランス革命では、(元)首をすげかえるどころか(国)体さえ破棄されて、元の黙阿弥があった場所にジュリアナ東京が建つ、そんな出来事が起こってしまう。体制が変わってしまう。王政から共和制、民主制へ*3。ある一定のやり方を踏襲する人が交代するのではなく、そのやり方そのものが通用しない画期によって突き動かされる歴史。断絶、脱臼、あるいは少なくとも捻挫を伴った歴史観が革命によって育まれ、そういう新しい歴史観が決して盆に返ることのない覆水、治ったとしても決して消えることのない古傷、そういうものとして「危機」を育んだのではないかと思う。まあお手つきで突き指、みたいな憶断ではあるが。
 危機といえば、世界大戦。ふたつの大戦前後の知識人は、上を下への大騒ぎだった。人命が喪われ、町が壊され、民族が離散する。危機は知識人にとって思考の火打石となる。*4
 ヴァレリーのいう「精神の危機」(1919)は、ヨーロッパに住まう人々を束ねるアイデンティティの危機、つまりヨーロッパってなんだったっけ、という漠然とした懐疑への暫定的な回答、と大雑把に翻訳することができるだろう。ドイツの軍事的台頭に端を発し、引き続く大戦が象徴する危機は、欧州例外主義とでもいうべきグレコ・ローマン精神の地盤の揺らぎとして解釈される。ヴァレリーのいう「精神」は彼の著作を読めば読むほど定義の困難を痛感する言葉ではあるが、概ねヨーロッパをヨーロッパたらしめてきた、弛まぬ自己批判と未知の解読へと外部や他者に向かう、ヨーロッパ特有のダイナミズム、として解することできようか。テクノロジーの発達やそれに伴う認識の変容により、世界は平板化の一途を辿る。そうした地下で進行しつつあったヨーロッパ精神の危機を顕在化させたのが戦火だった。ヴァレリーにとって、ヨーロッパの危機を克服する手段は、危機に瀕している当の精神の再建でしかありえない。
 アジアを始めとするヨーロッパの外に対する見方にも、「精神」のありかたが窺える。ヴァレリーは、アジア等の他者がヨーロッパの奥底に浸透し、互いに影響を及ぼしあってきたという。20世紀初頭の知識人としては、極めて教科書的な文化相対主義かもしれない。雑多なものを摂取し、許容し、消化する精神はヨーロッパ固有のもの。精神は他者をぶち込み溶かし込むぐつぐつ煮えたぎる溶鉱炉。精神は非ヨーロッパ人の目から見ると、今にも凍りつきそうなメルティングポットにも映る。とまれ、ヴァレリーはヨーロッパの再建には、冷え切った精神にもう一度火を入れることが肝要、と説く。*5
 ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938)を危機の言説として扱うというのは邪道かもしれない。遊びを日常から隔絶した自律的なルールが働く場として定義し、とかく遊びから疎隔されがちな真面目さを遊びの要件として評価するなど、本書は遊びの文化史の古典として名高い。しかし、ホイジンガが戦争をも遊びの一例として論じている点を見逃すわけにはいかない。特に結語に向かうに従って、ホイジンガの論調は憂いを帯びてくる。真面目さの方に時代の振り子が振れて、遊びがもつ日常からの切断がだんだん起らなくなってきた。遊びが遊ばれなくなっていく。真面目さと遊びが微妙なバランスを保って遊ばれていた時代を郷愁さえ滲ませながら綴り、遊び心が喪われていく現代を批判するホイジンガの筆致には、深刻さを増す世界情勢、とくに大戦が影を落としている。ごくごく真面目に、人の命を奪い、街を焦土に変え、人心を疲弊させる現代的戦争に対する憂い。官能なき憂いを察するわたしは、末尾が近づくにつれ『ホモ・ルーデンス』を支える真面目と遊びの弁証法の論拠が揺らぐさまを目の当たりにし、微かな危機の匂いを嗅いでしまう。(続く)

*1:最近では危機ではなく、危険、リスク社会という社会学の理論も流通しているし、ネグリの『帝国』の影響か、危険を予め防ぐセキュリティの概念も様々な領域で転用されている。

*2:そういえば、いつかのMLA会長の講演にも「文学の危機」と題されたものがあったし、柴田元幸の講演でさかんに「文学の危機」を云々する質問が飛び交っていたこともあった。文学という言葉が、小説や韻文、劇作などの創作を指すのか、それともそういうテクスト群を対象とした研究を指すのか、極めて曖昧なせいか、文学の危機というクリシェにはどうしても輪ゴムを噛み続けるような違和を覚える。黙示録的ヴィジョンのように、危機を叫ぶことで新たな展望が開けるかもしれない、という淡い効果は見込めるとしても、文学の危機を叫ぶ人々は時代の変遷についていけないか、ついていこうとしないというだけではないか。流行を追うだけの人々のほうが質が悪いとしても。

*3:フランスの場合、そう簡単にはいかなかったが。

*4:その一方で、身も蓋もない言い方ではあるが、危機はある種の知識人にとっては稼ぎ時をも意味する。

*5:とはいえヴァレリーを「精神のひと」、あるいは最近流行りの「感性のひと」として定義してしまうのはためらわれる。『ヴァレリーコレクション』の解説に倣えば、ヴァレリーはかたちをもたない「軟体動物」だ、とわたしは思う。彼にはどうも知識人を演じていたような節さえある。ハイデッガーとは違って、ヴァレリーの文章からはずいぶん不真面目な匂いがすることだし。またそのうち書こう。