騾馬の顔

 

 ところでこの騾馬という奴は、私には(たとえどんなにいそいでおろうとも)到底たたく気持ちになれない動物なのです――騾馬という奴はその顔つきにも物ごしにも、辛抱強く苦しみにたえておりますという文字が、いささかのてらいもなくありありと書いてあって、それが実に強力に奴のために弁じ立てるので、いつもこちらの腕がにぶるのです。それどころか、どこで出逢った場合でも――町の中でだろうと田舎でだろうと――車を引いていようと荷籠をせおっていようと――自由の身でいようとつながれていようと――必ず何かこちらからやさしい言葉をかけることになります。そうなると言葉は言葉を生む道理ですから(向こうもこちら同然に格別の用を持たぬ時ですと)――私は奴を相手に会話を始めてしまうのが通例なのです。私の想像力は、奴の顔に刻まれた皺の工合をたよりに奴の応答する言葉をこしらえあげるのですが――またそのようなでっち上げた応答だけではまだるっこしくて意がつくせない折などは――私の心から奴の心に乗り移って、こういう場合なら騾馬としてどう考えるのが人間に劣らず一番自然なのかを察してやるのですが、そういう時くらい私の想像力が活溌に働くことはほかには絶えてないのです。[中略]
 ところが騾馬が相手ですと、私はいつまででも話ができるのです。(『トリストラム・シャンディ 下巻』 92-94)

 顔を読んで言葉を紡ぐ。顔に刻まれた皺を「文字」として解釈する。頁と顔。騾馬の顔の皺と文字。
 騾馬の気持ちになるというのと、神が「降りてくる」のはよく似ている。