霊感、自然、秩序

 

 既知の世界のあらゆる地域を通じて現今用いられている、一巻の書物を書きはじめる際の数多くの方法の中で、私は私自身のやり方こそ最上なのだと確信しています――同時に最も宗教的なやり方であることも、疑いをいれません――私はまず最初の一文を書きます――そしてそれにつづく第二の文章は、全能の神におまかせするのです。
 私の書く文章がつぎつぎに自然に出て来て、全体の構成もおのずから成っていく有様を一目御覧になりさえすれば、世の文士たる方々も、表の入り口をさっと開けて隣人やら友人やら親戚やらをむやみに呼び込んで来る、ついでに悪魔までが子分どもを引きつれてまぎれこんで来て、ハンマーやら武器やらをやたらにふりまわすなどという、あのばかばかしい大さわぎ沙汰から永久にピタリと解放されることでしょう。(『トリストラム・シャンディ 下巻』 138)

 
 人工的な秩序(たとえば『さかしま』の部屋)ではなく、一見無秩序に見えるものこそ自然の秩序だとスターンは考えていたんだろうか。啓蒙思想ジョン・ロックの「連想」は、折り目正しい論理的な人工物ではない。きっと自然のように錯綜し、繋がりをでっちあげ、ミミズが這った痕を残して、エントロピイを標榜する。後戻りできない登攀、ハーケンを落としながら進む登攀、高速ゆえに後戻りできない登攀。連想は繋がることだけに集中し、繋がったものを忘れていく。ハーケンを落としていく。連想は次の足場をめがけて飛んでいき、今いる足場を忘れていく。
 
 芸術、ひいて書くという行為の頂点に神学があったことを思えば、新しく勃興しつつあった近代小説は神学の威光を借りて自己正当化しようとしていたのだろうか。スターンが坊主だという事情を割り引いたとしても。
 霊媒と機械のような文筆家。モデルニテのとば口。