interiorを宿す外套、もの書くマテリアリスト

ルドヴィコス・ソルボネンシスはこういうことはすべて肉体(本人の言葉でいえば「外的物質」)だけの問題だといっていますが――これはまちがっています。魂と肉体は、何かを受けるという場合には必ず共同受益者の関係にあるのです。人間が衣服を身につければ、必ずその人の思想も同時に衣に包まれます。紳士の身なりに装えば、その人の思想もことごとく、同じ上品な装いをつけて当人の想像に浮かんで来ることになります――ですからその人は、ただペンだけをとり上げて、自分らしく書こうとさえすれば、それだけでほかに苦労することはない道理なのです。(『トリストラム・シャンディ 下巻』 272)

 粗雑な観相学、骨相学のような疑似科学へと還元してしまってはおもしろくない。むしろ、ここにはマテリアルや素材と個人の内面性とのあいだの関係性、あるいは両者の根源的同質性を読みたい。牢獄や閉所こそ近代小説の子宮。さらには読者たちも個室でひとりこっそり読んでいた。個人の誕生は、彼らを包む場所とも関係がある。
 皮膚、表面、あるいはその外延としての衣服もまた、内なる想像力と同じ「かたち」をしていることになる。「騾馬の顔」のように、外套もまた読むに値する記号、表出した内面。沈黙が言語であるように、ものいわぬ表面も言語。
 ではなにが読めないのだろう。少なくとも本作においては、読む器官である「眼」なのかもしれない。「眼の虜、眼を覗く」→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20120218